(その1はこちら)
■猿仏塚
子供達の厄除け塚で、子供が病気になると泥団子を供え、病気が治ると米団子を供える風習がある。言い伝えでは子守をしていた赤ちゃんを誤って殺してしまった猿が、自分の過ちを悔い食事をせずに赤ちゃんの墓を見守り続けとうとう餓死したので、村人が哀れみ「仏になって子供を守ってほしい」と手厚く葬ったという。
■黒松
樹齢約300年といわれる黒松が民家の前にある。
■国土安穏寺
日蓮宗の寺院。室町時代の応永17年(1410)に日通聖人が開いたと伝える。開基は足立の領主の一人であった千葉満胤と伝えられる。徳川将軍家から厚く信任され、葵の寺紋を許された。旧日光街道に近く歴代将軍が位牌所や御膳所(休憩や食事をとる場所)として立ち寄った。
仁王門。本堂は工事中。
扉や瓦に葵の寺紋がついている。
三代将軍徳川家光の手植えの松。
墓地の近くにあった居眠小僧の像。こちらはかわいいが、近くには目を見開いた顔の怖い掃除小僧の像がある。
■旧日光街道
江戸時代の五街道の一つで江戸と日光を結ぶ約142kmの街道。東照宮が日光に造営された元和3年(1617)以降、日光社参と奥州への道として整備された。江戸から宇都宮までは奥州街道と重なる。21の宿場があり、この場所から江戸寄りにあったのが千住宿、日光よりにあったのが草加宿。
旧日光街道と国土安穏寺の前の道の丁字路にある石碑。
■赤羽家長屋門
幕末に建てられた元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の長屋門と言われる。現在は赤羽氏の所有。
■鷲神社
御祭神は日本武尊。文保2年(1318)年創建と伝えられる。200年余の歴史を持つ島根神代神楽が伝わり、例大祭や11月の酉の市に奉納される。境内には高さ2mほどの富士塚、島根学問所跡や徳川吉宗が座ったという将軍石がある。
社殿。
富士塚。
島根学問所跡と将軍石。この地に寺子屋があり、庶民教育に熱心だった八代将軍徳川吉宗が視察に来た。
■炎天寺
真言宗豊山派の寺院。天喜年間(1053-1057)に源頼義・義家親子がこの地付近で野武士の攻撃に遭い、苦戦の末勝利を収めたので、隣の八幡神社と当寺を建立したと伝えられる。村名の「六月」と寺名の由来は戦が六月の炎暑の最中であったことからとされる。江戸時代の俳人小林一茶ゆかりの寺で、「蝉なくや六月村の炎天寺」「むら雨や六月村の炎天寺」等の句は当寺で詠まれたと伝えられる。
小林一茶像。
「蝉なくや六月村の炎天寺」の句碑。
「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑の前で、やせ蛙とふとった蛙が相撲をとる。岸で蛙達が見守る。
池にいた蛙の像。寺の主の趣味なのか境内には蛙の像多し。
巨大な福蛙。なでると福が授かるという。
■猿仏塚
子供達の厄除け塚で、子供が病気になると泥団子を供え、病気が治ると米団子を供える風習がある。言い伝えでは子守をしていた赤ちゃんを誤って殺してしまった猿が、自分の過ちを悔い食事をせずに赤ちゃんの墓を見守り続けとうとう餓死したので、村人が哀れみ「仏になって子供を守ってほしい」と手厚く葬ったという。
■黒松
樹齢約300年といわれる黒松が民家の前にある。
■国土安穏寺
日蓮宗の寺院。室町時代の応永17年(1410)に日通聖人が開いたと伝える。開基は足立の領主の一人であった千葉満胤と伝えられる。徳川将軍家から厚く信任され、葵の寺紋を許された。旧日光街道に近く歴代将軍が位牌所や御膳所(休憩や食事をとる場所)として立ち寄った。
仁王門。本堂は工事中。
扉や瓦に葵の寺紋がついている。
三代将軍徳川家光の手植えの松。
墓地の近くにあった居眠小僧の像。こちらはかわいいが、近くには目を見開いた顔の怖い掃除小僧の像がある。
■旧日光街道
江戸時代の五街道の一つで江戸と日光を結ぶ約142kmの街道。東照宮が日光に造営された元和3年(1617)以降、日光社参と奥州への道として整備された。江戸から宇都宮までは奥州街道と重なる。21の宿場があり、この場所から江戸寄りにあったのが千住宿、日光よりにあったのが草加宿。
旧日光街道と国土安穏寺の前の道の丁字路にある石碑。
■赤羽家長屋門
幕末に建てられた元島根村名主・通称「金武様」と呼ばれた牛込家の長屋門と言われる。現在は赤羽氏の所有。
■鷲神社
御祭神は日本武尊。文保2年(1318)年創建と伝えられる。200年余の歴史を持つ島根神代神楽が伝わり、例大祭や11月の酉の市に奉納される。境内には高さ2mほどの富士塚、島根学問所跡や徳川吉宗が座ったという将軍石がある。
社殿。
富士塚。
島根学問所跡と将軍石。この地に寺子屋があり、庶民教育に熱心だった八代将軍徳川吉宗が視察に来た。
■炎天寺
真言宗豊山派の寺院。天喜年間(1053-1057)に源頼義・義家親子がこの地付近で野武士の攻撃に遭い、苦戦の末勝利を収めたので、隣の八幡神社と当寺を建立したと伝えられる。村名の「六月」と寺名の由来は戦が六月の炎暑の最中であったことからとされる。江戸時代の俳人小林一茶ゆかりの寺で、「蝉なくや六月村の炎天寺」「むら雨や六月村の炎天寺」等の句は当寺で詠まれたと伝えられる。
小林一茶像。
「蝉なくや六月村の炎天寺」の句碑。
「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑の前で、やせ蛙とふとった蛙が相撲をとる。岸で蛙達が見守る。
池にいた蛙の像。寺の主の趣味なのか境内には蛙の像多し。
巨大な福蛙。なでると福が授かるという。