生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年5月23日 東海道散歩1(日本橋、品川宿)イベント主催

2010年05月23日 | 東海道徒歩の旅
自分の散歩コミュで、日帰りで行ける範囲で東海道を何度かに分けて歩くイベントを不定期に開催することにした。

第1回の今回は日本橋から品川宿まで歩き、京浜急行鮫洲駅で解散の予定だったが、残念なことに朝から続く雨が止まずこれ以上屋外を歩くのは厳しいと判断、品川駅で解散せざるをえなかった。参加者の方の期待を裏切ってしまい大変申し訳なかった。

解散後は全員でファミレスでお茶会をした。お茶会は異業種交流会のような雰囲気で刺激があった。普段出会うことのない方々からいろいろなお話が聞けてとても楽しかった。

参加者は管理人も含め6名で、男性が3名、女性が3名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名だった。

【コース】
三越前駅→日本橋→日本橋魚河岸跡→日本国道路元標→ヤン・ヨーステン記念碑→旧京橋跡→江戸歌舞伎発祥の地跡→京橋大根河岸青物市場跡→銀座発祥の碑→西郷・勝会談の碑→札の辻→元和キリシタン遺跡→高輪大木戸跡→牛供養の塔→高輪海岸の石垣石→品川駅創業記念碑→品川駅解散

(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■日本橋
慶長8年(1603年)に架橋され、翌年に五街道の起点として定められた。現在も日本橋は国道の起点となっており、橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれている(橋の北詰に複製あり)。現在の石造2連アーチ橋は、明治44(1911)に完成したもので国の重要文化財。江戸時代には橋の南詰に高札場があったが、現在は高札をかたどった記念碑がある。


日本橋。重厚な意匠の橋で国道の起点にふさわしい。橋の上に高速道路が走っているのが残念。


獅子像。


麒麟像。


日本国道路元標の複製。


高札場をかたどった記念碑。


■日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには幕府や江戸市中に消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする魚河岸があった。江戸時代初期に佃島の漁師達が幕府や諸大名へ調達する御膳御肴の残りを売り出したことが日本橋魚河岸の始まりで、関東大震災後に築地に移転するまで、江戸および東京の台所としてにぎわった。記念碑は竜宮城の乙姫を表す。




■ヤン・ヨーステン記念碑
ヤン・ヨーステンは八重洲の地名の由来となったオランダ人の航海士。慶長5年(1600)、イギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)らと共に豊後(大分県)に漂流。江戸に出て徳川家康の外交貿易の顧問となり、日本橋に屋敷を与えられた。




■旧京橋跡
日本橋と同時代の慶長年間に架橋。江戸中期にはここの擬宝珠に縄を結んで願うと咳止めに効くといわれた。橋は昭和34年(1959)に撤去されたが、擬宝珠欄千の親柱が記念碑として残されている。




■江戸歌舞伎発祥の地跡
寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が京から江戸に下り、猿若座(中村座)を設け興行を始めたのが江戸歌舞伎の始まりといわれる。のちに江戸城に近いという理由で移転させられた。




■京橋大根河岸青物市場跡
江戸時代、京橋川河岸は野菜の荷揚場で、八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していた。別名「大根河岸」と呼ばれ、関東大震災まで続いていたが、震災後は、神田や築地に移転した。




■銀座発祥の碑
銀座は銀貨の鋳造を管轄する幕府の役所のことを指す。慶長17年(1612)、駿河の銀座が当地に移転されたことから「銀座」の地名の由来となった。ちなみに金貨の鋳造を管轄する幕府の役所である金座は日本橋本石町、今の日本銀行におかれた。




銀座の街並み。


■勝・西郷会談の碑
江戸時代には薩摩藩の蔵屋敷があり、当時はすぐ裏までが海に面した砂浜で、薩摩の国元から船で送られた米などが陸揚げされた。慶応4(1868)年3月14日この地で幕府の陸軍総裁・勝海舟と官軍の大将・西郷隆盛との会見が行われ、歴史的な江戸城の無血開城がなされた。石碑は西郷吉之助(西郷隆盛の孫)による揮毫。




■札の辻
江戸時代の初めに高札場があったことから札の辻と呼ばれた(高札場は天和3年(1683)に高輪の大木戸に移転)。
元和2(1616)年に芝口門を建て、東海道の江戸の南の出入口とした(のち出入り口の機能は高輪に移転)。この門は「日暮御門(ひぐらしのごもん)」とも呼ばれ、名前の由来は当時、門の東はすぐ海で、そこから房総の山々が一望でき、日暮まで眺めていても飽きないほど景色が見事だったからと言われる。




■元和キリシタン遺跡
徳川3代将軍家光が元和9年(1623)に外国人神父を含むキリシタン50名を処刑した刑場跡。




遺跡のある丘の芝桜。


■高輪大木戸跡
享保9(1724)年に芝口門から移された (築造年には諸説あり) 東海道の江戸の南の出入口。旧東海道の両側に石垣を築き、夜間には通行止めとし治安維持と交通規制を行った。旅人の送迎がここで行われ、海岸沿いで景色がよく月見の名所としても賑わった。現在は海側の石垣のみ残る。




■牛供養の塔
高輪あたりには江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋があった。牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋7家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立。


下見のときも当日も門が閉ざされていたため現物を見ることができなかった。


■高輪海岸の石垣石
江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いた石。




石垣石の説明板にあった、高輪付近の東海道を描いた絵画の写真。前方が高輪大木戸。江戸時代の東海道は海岸沿いにあったことが分かる。


■品川駅創業記念碑
品川駅の創業は明治5年(1872)5月7日で、同年9月の新橋・横浜間が本営業する4ヶ月前に品川・横浜間が仮開業した。当時の品川駅は、現在より少し南寄りにあった。駅舎は海岸にあり、岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれる。




記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されている。品川~横浜間の列車は上り下り共に1日2本で、所要時間は35分。


■おまけ


ド派手なキティちゃんのはとバス。乗るのが恥ずかしいかも。日本橋にて。


当日参加者の方が発見した、札の辻の歩道橋の謎のマーク。フリーメーソンのシンボルか(笑)!?