この日のイベントは東海道散歩の3回目で、立会川駅から八丁畷駅まで東海道を歩いた。暑い中ずっとアスファルトの道を歩くコースだったので熱中症を心配していたが何事もなくイベントが終了できたのでよかった。
2回目の品川宿と同様、残念ながら川崎宿も当時の面影がほとんど残っていなかったが、説明板や古地図の複製や浮世絵を描いた
シャッターの設置等に川崎宿の存在を示す地元の努力が現れていた。
街中に「2023年で川崎宿開設400年」との表示があったので帰宅後に調べてみると、2023年を目標に行政と市民で川崎宿の歴史と文化を生かした街づくりを進めて行くとのことだった。
「東海道川崎宿2023」とは?
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kawasakijuku/2023.htm#2023toha
東海道川崎宿2023いきいき作戦
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kawasakijuku/2023ikiiki.htm
「いきいき作戦」のページには市民による16の提案が載っている。個人的には「川崎宿おもしろ館(仮称)の整備」「川崎宿まちなみの整備」「六郷の渡し復活」を実現させてほしい。いきいき作戦を契機に川崎宿が盛り上がるとよいと思う。
【コース】
立会川駅→立会川商店街→龍馬像→なみだ橋→大経寺→鈴ヶ森刑場跡→磐井の井戸→聖跡梅屋敷公園→六郷神社→北野神社→六郷の渡し跡→旧六郷橋の橋門・親柱→川崎大師灯籠・明治天皇渡御碑→万年屋跡→田中本陣跡→一行寺→宗三寺→砂子の里資料館→問屋場跡→高札場跡→惣兵衛本陣跡→佐藤本陣跡→小土呂橋→教安寺→京口跡→芭蕉ポケットパーク→芭蕉句碑→無縁塚→八丁畷駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■立会川商店街
土佐藩下屋敷跡から浜川砲台跡に続く当時と同じ道にある商店街で、龍馬が歩いた道とされる。
「若き日の龍馬がいく」「浜川砲台と龍馬の街」ののぼり。
商店街の店には龍馬のポスターが貼られている。
龍馬伝のステッカーの自販機と千枚札風のキーホルダーのガチャガチャ。
■龍馬像
高知市より平成16年に寄贈された像。
■なみだ橋
浜川橋。立会川にかかる橋で鈴ヶ森刑場に護送される罪人を親族達が涙を流して見送ったことから由来。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたもの。
■大経寺
文久2年(1862)創建の日蓮宗の寺院。鈴ヶ森刑場跡に隣接し、刑死者を供養した。
■鈴ヶ森刑場跡
慶安4年(1651)に江戸幕府が設けた御仕置場(刑場)跡。元禄8年(1695)の時点の規模は間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)。丸橋忠弥、平井(白井)権八、天一坊、八百屋お七など、歌舞伎や講談に登場する人物もここで処刑された。首洗いの井戸、はりつけ柱や火あぶり台の台石が残る。
題目供養塔。
首洗いの井戸。
火あぶり台。
はりつけ台。
■磐井の井戸
「この井戸の水を飲むとき、心が正しければ清水、邪心があれば塩水」という言い伝えがある。第一京浜国道として東海道が拡幅されたため、もとは磐井神社の境内にあったものが、神社前の歩道に残ることになった。
■美原通り
当時の東海道の道幅が残る通り。
江戸時代の大森の名物だった麦わら細工。
■聖跡梅屋敷公園
文政年間(1818~1830)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開いた。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。明治時代には、明治天皇がたいそうに気に入られ、9度も通ったと記録されている。現在は屋敷跡の一部が公園になっている。
■六郷神社
六郷の総鎮守。天喜5年(1057)源頼朝、義家が奥州に向かう折、この地の老杉に白旗を立てて勝利を祈願したところ、勝利したので凱旋後に創建したと伝えられる。毎年1月7日に行われる子供流鏑馬は都無形民俗文化財。
社殿。
狛犬。大田区内で最も古く貞享2年(1685年)に奉納された。漫画のキャラクターのような狛犬。
ところでなぜこの顔にしたのだろう・・・?
建久2年(1191)梶原景時の寄進と伝えられる太鼓橋。
慶長五年(1600)に六郷川(多摩川の河口付近)に架けられた木造六郷橋の橋柱。
■北野神社
別名「落馬止め天神」「止め天神」で、徳川8代将軍吉宗の落馬を止めたとして伝えられる。「落馬止め」が転じ「落ちない」ことから受験生や選挙立候補者等が参拝する。毎月25日の縁日では等身大の木馬にまたがって祈願する。
止め塚。合格祈願の絵馬が多かった。
■六郷の渡し跡
東海道における江戸の玄関口として、重要な渡し場。中世末から近世初頭にかけて六郷川に何度も橋が架けられたが、貞享5年(1688年)の洪水で流出して以来、明治7年(1974)に木造橋が架橋するまで渡し舟が利用されてきた。渡し舟は江戸の町人が請け負っていたが、宝永4年(1707)に川崎宿が請け負った。
「六郷の渡し跡」と書かれていたようだが文字が残っていない。
渡し舟ではなく橋を歩いて多摩川を渡る。
六郷橋の欄干の渡し舟のオブジェ。
■旧六郷橋の橋門、親柱
大正14年に架橋した旧六郷橋の橋門、親橋が残る。旧六郷橋は明治7年架橋の木造橋から架け替えられた近代的な鉄橋だったが、交通量の増大や自動車の重量化に対応できなくなり、昭和50年(1975)に現在の橋に架け替えられた。
2回目の品川宿と同様、残念ながら川崎宿も当時の面影がほとんど残っていなかったが、説明板や古地図の複製や浮世絵を描いた
シャッターの設置等に川崎宿の存在を示す地元の努力が現れていた。
街中に「2023年で川崎宿開設400年」との表示があったので帰宅後に調べてみると、2023年を目標に行政と市民で川崎宿の歴史と文化を生かした街づくりを進めて行くとのことだった。
「東海道川崎宿2023」とは?
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kawasakijuku/2023.htm#2023toha
東海道川崎宿2023いきいき作戦
http://www.city.kawasaki.jp/61/61kusei/kawasakijuku/2023ikiiki.htm
「いきいき作戦」のページには市民による16の提案が載っている。個人的には「川崎宿おもしろ館(仮称)の整備」「川崎宿まちなみの整備」「六郷の渡し復活」を実現させてほしい。いきいき作戦を契機に川崎宿が盛り上がるとよいと思う。
【コース】
立会川駅→立会川商店街→龍馬像→なみだ橋→大経寺→鈴ヶ森刑場跡→磐井の井戸→聖跡梅屋敷公園→六郷神社→北野神社→六郷の渡し跡→旧六郷橋の橋門・親柱→川崎大師灯籠・明治天皇渡御碑→万年屋跡→田中本陣跡→一行寺→宗三寺→砂子の里資料館→問屋場跡→高札場跡→惣兵衛本陣跡→佐藤本陣跡→小土呂橋→教安寺→京口跡→芭蕉ポケットパーク→芭蕉句碑→無縁塚→八丁畷駅解散
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■立会川商店街
土佐藩下屋敷跡から浜川砲台跡に続く当時と同じ道にある商店街で、龍馬が歩いた道とされる。
「若き日の龍馬がいく」「浜川砲台と龍馬の街」ののぼり。
商店街の店には龍馬のポスターが貼られている。
龍馬伝のステッカーの自販機と千枚札風のキーホルダーのガチャガチャ。
■龍馬像
高知市より平成16年に寄贈された像。
■なみだ橋
浜川橋。立会川にかかる橋で鈴ヶ森刑場に護送される罪人を親族達が涙を流して見送ったことから由来。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたもの。
■大経寺
文久2年(1862)創建の日蓮宗の寺院。鈴ヶ森刑場跡に隣接し、刑死者を供養した。
■鈴ヶ森刑場跡
慶安4年(1651)に江戸幕府が設けた御仕置場(刑場)跡。元禄8年(1695)の時点の規模は間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)。丸橋忠弥、平井(白井)権八、天一坊、八百屋お七など、歌舞伎や講談に登場する人物もここで処刑された。首洗いの井戸、はりつけ柱や火あぶり台の台石が残る。
題目供養塔。
首洗いの井戸。
火あぶり台。
はりつけ台。
■磐井の井戸
「この井戸の水を飲むとき、心が正しければ清水、邪心があれば塩水」という言い伝えがある。第一京浜国道として東海道が拡幅されたため、もとは磐井神社の境内にあったものが、神社前の歩道に残ることになった。
■美原通り
当時の東海道の道幅が残る通り。
江戸時代の大森の名物だった麦わら細工。
■聖跡梅屋敷公園
文政年間(1818~1830)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開いた。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。明治時代には、明治天皇がたいそうに気に入られ、9度も通ったと記録されている。現在は屋敷跡の一部が公園になっている。
■六郷神社
六郷の総鎮守。天喜5年(1057)源頼朝、義家が奥州に向かう折、この地の老杉に白旗を立てて勝利を祈願したところ、勝利したので凱旋後に創建したと伝えられる。毎年1月7日に行われる子供流鏑馬は都無形民俗文化財。
社殿。
狛犬。大田区内で最も古く貞享2年(1685年)に奉納された。漫画のキャラクターのような狛犬。
ところでなぜこの顔にしたのだろう・・・?
建久2年(1191)梶原景時の寄進と伝えられる太鼓橋。
慶長五年(1600)に六郷川(多摩川の河口付近)に架けられた木造六郷橋の橋柱。
■北野神社
別名「落馬止め天神」「止め天神」で、徳川8代将軍吉宗の落馬を止めたとして伝えられる。「落馬止め」が転じ「落ちない」ことから受験生や選挙立候補者等が参拝する。毎月25日の縁日では等身大の木馬にまたがって祈願する。
止め塚。合格祈願の絵馬が多かった。
■六郷の渡し跡
東海道における江戸の玄関口として、重要な渡し場。中世末から近世初頭にかけて六郷川に何度も橋が架けられたが、貞享5年(1688年)の洪水で流出して以来、明治7年(1974)に木造橋が架橋するまで渡し舟が利用されてきた。渡し舟は江戸の町人が請け負っていたが、宝永4年(1707)に川崎宿が請け負った。
「六郷の渡し跡」と書かれていたようだが文字が残っていない。
渡し舟ではなく橋を歩いて多摩川を渡る。
六郷橋の欄干の渡し舟のオブジェ。
■旧六郷橋の橋門、親柱
大正14年に架橋した旧六郷橋の橋門、親橋が残る。旧六郷橋は明治7年架橋の木造橋から架け替えられた近代的な鉄橋だったが、交通量の増大や自動車の重量化に対応できなくなり、昭和50年(1975)に現在の橋に架け替えられた。