生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年7月4日 東海道散歩2(品川宿)イベント主催(その1)

2010年07月06日 | 東海道徒歩の旅
この日のイベントは5月に初めて開催した東海道散歩の2回目で、品川駅から立会川駅まで東海道を歩いた。旧品川宿を歩き回った後、大河ドラマでおなじみの坂本龍馬ゆかりの地を見て回った。

参加者は管理人も含め10名で、男性が5名、女性が5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方はなんと0名。こういうケースは初めてだ。


【コース】
品川駅出発→品川駅創業記念碑→問答河岸の碑→土蔵相模跡→品川浦→利田神社・鯨塚→御殿山下台場跡→品川宿本陣跡→東海寺→品川神社→品川宿交流館→寄木神社→荏原神社→問屋場跡→海蔵寺→旅籠屋釜屋跡→品川寺→海雲寺→海晏寺→山内豊信(容堂)の墓→鮫洲八幡神社→土佐藩下屋敷跡→浜川砲台跡→なみだ橋→立会川駅前商店街→龍馬像→立会川駅解散


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■品川駅創業記念碑
日本で最初の鉄道は、明治5年(1872)9月の新橋・横浜間の鉄道だが、それに先立つ5月、品川・横浜間が仮開業した。当時の品川駅は、現在より少し南寄りで、駅舎は海岸にあり、岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれる。




記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されている。品川~横浜間の列車は上り下り共に1日2本で、所要時間は35分。


■品川宿
日本橋より2里(約7.8キロメートル)のところにあった、現在の京浜急行の北品川駅~青物横丁駅にかけて設置された東海道で江戸から一番目の宿場で、長さは約2134メートル。次の川崎宿までは2里18町(9.8キロメートル)あった。戦国時代に目黒川をはさんで北品川宿と南品川宿が形成されていたが、享保7年(1722)に北品川宿から高輪よりに徒歩新宿(かちしんじゅく)が加わった。

天保14年(1843)の記録によると、人口6890人、家数1561軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒で、当時の箱根以東の宿場では最も人口の多い宿場だった。

江戸の出入り口であったため、旅人の送迎や、江戸に入る大名が行列や身なりを整える場所として利用された。また、江戸近郊の行楽地として、御殿山の花見や遠浅の海での潮干狩りや海晏寺(かいあんじ)の紅葉見物などで賑わった。さらに、宿場には多くの飯売旅籠(飯盛女と称した遊女を置いた宿)が並び、北の吉原に対し「南」と呼ばれるほどに栄えた遊興の街でもあった。

なお、品川宿から鈴が森までの東海道の道幅は江戸時代のものとほぼ同じである。


品川宿。下見した日も当日も日曜日だったため営業していない店が多し。


浮世絵が描かれている商店街のお店のシャッター。何箇所かで見かけたので商店街ぐるみで行っているようだ。


電柱の住所表記。


ときおり古い家も見かける。


■問答河岸の碑
東海寺の沢庵が3代将軍徳川家光を迎え出て禅問答をしたとされる場所に建つ石碑。将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」。江戸時代には東海道のすぐ東側は海であった。




■土蔵相模跡
旧東海道に面した飯売旅籠「相模屋」の外装が海鼠塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれた。文久2年(1862)に高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら長州藩の志士が御殿山に建設中の英国公使館を焼き払った際には集結地となり、また、安政7年(1860)の桜田門外の変決行前夜、水戸藩の浪士たちが別杯を交わしたのもここであった。昭和52年(1977)まで「さがみホテル」して営業を続けていたが、現在ではマンションになっている。


現在は説明板が残るのみ。


■品川浦
江戸時代には幕府に魚介類を献上する義務のあった御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)の一つで、魚介類の豊富な水揚げを誇っていた。また海苔の産地でもあり、18世紀はじめには海苔の養殖が始まり、19世紀初頭には養殖が大森・羽田方面にまで広がった。現在は釣り船や屋形船の発着地として賑わう。


木造家屋と高層ビルの組み合わせが不思議な感じ。


■利田神社・鯨塚
嘉永3年(1626)に沢庵和尚が弁財天を祀ったのが始まり。利田はこの辺りを開発し、利田新田を開いた名主の姓から。境内の鯨塚は、寛政10年(1798)に品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達に捕らえられた一頭の大鯨の供養碑。大鯨は当時の江戸市中で評判となり、11代将軍家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧するほどの騒ぎとなった。




鯨塚。


境内の説明板にあった天保年間の品川宿とその周辺の地図。利田神社(洲崎弁天)は海のそばにあったことが分かる。


■御殿山下台場跡
嘉永6年(1853)のペリーの浦賀来航後に、江戸の防衛のために築かれた台場の一つで、台場跡に発見された石垣や、明治3年(1870)に第二台場にあった品川灯台のレプリカが残る(本物は愛知県犬山市の明治村に移築)。幕府は人工島に11基の台場築造を計画、5基を竣工させたが、資金不足により計画を変更し陸続きの当地に五角形の台場を造った。明治時代の埋め立てにより姿を消したが、台場の輪郭は道として残る。




■品川宿本陣跡
勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。江戸時代前期には北品川宿と南品川宿の両方に本陣があったが、中期以降は北品川宿の現在の本陣跡のみとなった。跡地は公園となり、明治元年(1868)、明治天皇行幸の際の行在所となったことにちなみ、聖蹟公園と命名された。




当時の本陣の様子。


■東海寺
臨済宗の寺院。江戸時代・寛永15年(1683)に、三代将軍徳川家光が、沢庵のために建てた寺で、157,000平米余りの広大な境内には数多くの塔頭があった。現在の東海寺は明治時代に塔頭の一つであった「玄性院」が寺名の名前を引き継いだもの。沢庵漬けが考案された地でもある。






■品川神社
北品川宿の鎮守。平安時代・文治3年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神の天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請したのが始まりとされる。


龍がからみついた見事な鳥居。大正時代に料亭の経営者が奉納。


社殿。


富士塚。明治2年(1869)に北品川宿丸嘉講の人々により造られたもので「品川富士」と呼ばれた。なかなか立派な富士塚だった。現在も7月に品川富士山開き行事が行われており、当日は行事の日だったが現地に着いたときにはすでに終わっていた。


板垣退助の墓。板垣退助(1838~1919)は幕末には倒幕運動に力を尽くし、維新後は自由民権運動を進め、自由党を作って総裁となった。遊説中、岐阜で刺客に襲われた時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」の言は有名。墓は品川神社の境内の外の東海寺の塔頭「高源寺」があった場所にある。




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