生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2011年1月23日 深川散歩イベント主催(その4)

2011年02月01日 | 都内散歩イベント主催
(その3はこちら


■富岡八幡宮
寛永4年(1627)創建。例祭の「深川八幡まつり」では、3年に一度本祭りが催され、炎天下の中、沿道から水をかけられながら50台余の神輿が練り歩き、担ぎ手と観客が一体となって盛り上がる。
相撲と縁の深い神社で、江戸時代・貞享元年(1684)に幕府の許しを得て初めて勧進相撲が行われ、以後相撲興行が定期的に行われた。






木場の角乗碑。木場の角乗は、江戸時代に木場の筏師が、水辺に浮かべた材木を、鳶口ひとつで乗りこなして筏に組む仕事の余技から発生したもので、数々の技術が加わり、芸能として発達した。


木場の木遣碑。木場の木遣は、徳川家康が江戸城造営の時に連れてきた材木商が伝えたものと言われているが、確かなことは不明。木場の筏師が、鳶口ひとつで材木を操る時の労働歌で、互いの息を合わせるため、掛け声のように即興の詩をつけて歌ったもの。


横綱力士の碑。明治33年(1900)、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるために江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となって建立。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれる。


深川の力持の碑。深川の力持は、江戸時代からの倉庫地帯であった佐賀あたりで、 米俵や酒樽などの運搬から発生した余技で、種々の力自慢が加わり、芸能として発達。 文化・文政のころ(19世紀初め)には、興行として行われるほど盛んになった。


大関力士の碑。歴代の大関を顕彰するために昭和58年(1983)に建立。


伊能忠敬像。江戸時代の地理学者・測量家の伊能忠敬(1745~1818)は、寛永12年(1800)から文化12年(1815)まで10回の測量のうち、遠方での測量に出発する際には当宮に参拝した。伊能忠敬は佐原で事業に成功後、50歳で江戸に出て深川黒江町(門前仲町1丁目)に住み、ここを測量の起点とし、日本で初めて実測による日本地図を完成させた。


■深川不動堂
真言宗。江戸時代、元禄16年(1703)に始まった成田山新勝寺の出張開帳が始まりで、 明治14年(1878)本堂が完成。関東大震災、戦災で本堂は焼失したが、本尊は焼失を免れた。現在の本堂は昭和26年(1951)に千葉県印旛沼のほとりに建っていた文久2年(1862)建立の龍腹寺を移築したもの。




参道。




■法乗院(深川えんま堂)
真言宗。寛永6年(1629)創建。江戸時代から「深川の閻魔様」と親しまれてきた。近年復興した閻魔像は、高さ3.5メートル、幅4.5メートルの巨大な座像にハイテク技術を内蔵、賽銭を入れると願い事の内容に応じて閻魔様の声で仏の教えが語られる。






閻魔像。


願い事によって賽銭の投入口が異なる。


■採荼庵(さいとあん)跡
元禄2年(1689)に芭蕉が「奥の細道」に旅立った場所。採荼庵は、芭蕉の門人の杉山杉風の別荘で、正確な場所は不明だが、仙台堀川にかかる海辺橋付近であると言われている。記録によると間口27メートル、奥行36メートルの屋敷であった。






■小津安二郎誕生の地
世界的映画監督の小津安二郎の誕生地。明治36年(1903)現在の深川1丁目で生まれ、大正12年(1923)に松竹に入社、昭和2年(1927)に監督となり「懺悔の刃」でデビュー。 その後、「東京物語」等の数々の名作を残し、昭和38年(1963)60歳で死去。




■伊能忠敬住居跡
江戸時代の地理学者・測量家の伊能忠敬が50歳で江戸に出てからの住まいの跡。




■深川東京モダン館
国登録有形文化財の「旧東京市深川食堂」を改修した施設で、観光案内スペースや多目的スペースとして活用されている。旧東京市深川食堂は昭和7年(1932)に震災復興事業で建設された鉄筋コンクリート造の建物で、2階天井まで全面窓の明るく 開放的な階段室と、2階南面の水平に連続するスチール・サッシュ窓が特徴的。










■おまけ


清澄長屋。関東大震災の復興事業として立てられた長屋形式の建物。今も現役。


お昼に食べた深川めし。あさりの炊き込みご飯。


梅が咲いていた。


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