先週の王子散歩に続き散歩イベントを主催。二週連続はかなりきついが、桜の時期にはどうしても外を歩きたくなる。
この日は、上野から電車で約1時間の茨城県古河市を散歩した。見どころは古河総合公園の約2,000本の花桃。花桃は少し散り始めていたが、花見ができる程度に持っていたのでよかった。桜の開花状況は5分~8分咲きくらいか。
参加者は管理人も含め9名で、男性が4名、女性が5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名だった。
(桜の写真は当日に撮影。それ以外の写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■万葉歌碑
古河の地名と関係あると思われる万葉集の2首の歌のうちの1首「逢わずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ舟に君も逢わぬかも(あなたと逢わずして行ってしまったら心残りだろう まくらがの古河をこぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなあ)」。あと1首は渡良瀬川堤防上にある。この歌から当時の古河は、河川交通の盛んなところで人々の往来が多く栄えていたことが読み取れる。
■四季の径南通り
四季折々の花々が楽しめる遊歩道。春は桜がきれい。
染井吉野。
大島桜。
■古河総合公園
昭和50年(1975)開園の約25ヘクタールの公園。約2,000本の花桃を筆頭に、藤、花しょうぶ、アジサイ、大賀蓮などの四季折々の花々が楽しめ、古河公方足利義氏の墓所や国重要文化財の旧飛田家住宅などの史跡もある。世界の主要な文化景観の保護と管理を目的とした顕著な活動に対して功績をたたえる「ユネスコ メリナ・メルクーリ国際賞」を日本で初めて受賞。
桃林。桃林の始まりは、江戸時代初期の古河藩主土井利勝が、実を食糧に幹枝を薪に利用させるために、古河の人々に桃の栽培を奨励したことからといわれる。
江戸時代・天保年間(1764~1780)の頃の桃の植え替えを機に、花見の名所として知られるようになり、明治時代には上野から臨時列車が運行されるほど花見客でにぎわったが、大正時代に病気により桃林が全滅。古河総合公園開園を機に花桃を植え、桃林を復活させた。
手前の白い花も花桃。
当日は熱気球が出ていた。
当日はこいのぼりが揚げられていた。
「ユネスコ メリナ・メルクーリ国際賞」受賞記念碑。
古河公方館跡。古河公方の古河城の別館「鴻巣御所」の跡。室町時代の康正元年(1455)京都の将軍家と対立していた足利成氏が鎌倉から古河に移動、2年後に古河城へ入った。古河城は以来120余年の間「古河公方」の居城として東国一円に重要な位置を占めたが、大正初期に渡良瀬川改修工事のため大部分が河川敷となった。館跡には当時の堀と土塁の跡が残る。
徳源院跡。古河公方五代の足利義氏の開墓で、義氏の一人娘「氏女」の法号により「徳源院」と改められた。義氏の墓と、孫の喜連川義親の墓や石塔が残る。
旧中山家住宅。建築年代は江戸時代の延宝2年(1674)年ごろと推定される農家。
旧飛田家住宅。国の重要文化財。茨城県内の曲がり家形式の農家の中でも最も古いもので、建立年代は18世紀前半と推定。
茶畑。
御所沼。戦前の御所沼ではジュンサイが取れ、東京の料亭に出荷されていた。昭和25年(1950)に水田へと埋め立てられたが平成8年(1996)に現在の形に復元された。
この日は、上野から電車で約1時間の茨城県古河市を散歩した。見どころは古河総合公園の約2,000本の花桃。花桃は少し散り始めていたが、花見ができる程度に持っていたのでよかった。桜の開花状況は5分~8分咲きくらいか。
参加者は管理人も含め9名で、男性が4名、女性が5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名だった。
(桜の写真は当日に撮影。それ以外の写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■万葉歌碑
古河の地名と関係あると思われる万葉集の2首の歌のうちの1首「逢わずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ舟に君も逢わぬかも(あなたと逢わずして行ってしまったら心残りだろう まくらがの古河をこぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなあ)」。あと1首は渡良瀬川堤防上にある。この歌から当時の古河は、河川交通の盛んなところで人々の往来が多く栄えていたことが読み取れる。
■四季の径南通り
四季折々の花々が楽しめる遊歩道。春は桜がきれい。
染井吉野。
大島桜。
■古河総合公園
昭和50年(1975)開園の約25ヘクタールの公園。約2,000本の花桃を筆頭に、藤、花しょうぶ、アジサイ、大賀蓮などの四季折々の花々が楽しめ、古河公方足利義氏の墓所や国重要文化財の旧飛田家住宅などの史跡もある。世界の主要な文化景観の保護と管理を目的とした顕著な活動に対して功績をたたえる「ユネスコ メリナ・メルクーリ国際賞」を日本で初めて受賞。
桃林。桃林の始まりは、江戸時代初期の古河藩主土井利勝が、実を食糧に幹枝を薪に利用させるために、古河の人々に桃の栽培を奨励したことからといわれる。
江戸時代・天保年間(1764~1780)の頃の桃の植え替えを機に、花見の名所として知られるようになり、明治時代には上野から臨時列車が運行されるほど花見客でにぎわったが、大正時代に病気により桃林が全滅。古河総合公園開園を機に花桃を植え、桃林を復活させた。
手前の白い花も花桃。
当日は熱気球が出ていた。
当日はこいのぼりが揚げられていた。
「ユネスコ メリナ・メルクーリ国際賞」受賞記念碑。
古河公方館跡。古河公方の古河城の別館「鴻巣御所」の跡。室町時代の康正元年(1455)京都の将軍家と対立していた足利成氏が鎌倉から古河に移動、2年後に古河城へ入った。古河城は以来120余年の間「古河公方」の居城として東国一円に重要な位置を占めたが、大正初期に渡良瀬川改修工事のため大部分が河川敷となった。館跡には当時の堀と土塁の跡が残る。
徳源院跡。古河公方五代の足利義氏の開墓で、義氏の一人娘「氏女」の法号により「徳源院」と改められた。義氏の墓と、孫の喜連川義親の墓や石塔が残る。
旧中山家住宅。建築年代は江戸時代の延宝2年(1674)年ごろと推定される農家。
旧飛田家住宅。国の重要文化財。茨城県内の曲がり家形式の農家の中でも最も古いもので、建立年代は18世紀前半と推定。
茶畑。
御所沼。戦前の御所沼ではジュンサイが取れ、東京の料亭に出荷されていた。昭和25年(1950)に水田へと埋め立てられたが平成8年(1996)に現在の形に復元された。