教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

論文の差異を見いだす際の注意点

2006年10月02日 18時14分17秒 | 教育研究メモ
 今日は起床失敗。昼から登校。
 今日も中山元『思考の用語辞典』から。今日は、「差異」「疎外と物象化」「存在」「他者」「外部」を読みました。むずかしくて、十分理解できない~。また、いずれも人間を起点として考えている概念なので、論文(もの)を中心に考えている今の私の問題意識とは直接つながらない。そのため、ちょっと苦労しました。
3.論文の「差異」を見いだす際の注意点
 昨日、論文の価値は先行研究との「差異」にある、としました。差異とは、個体そのものの価値の肯定に基づいて成立するもので、他の個体との関係の上で認識されるものです。
 では、論文の差異を見いだす視点は、どこに成り立つのでしょうか。普通、論文の差異を見いだす際、文章化された内容のみから差異を見いだします。この方法そのものはいたしかたないと思いますが、そこに問題がひそんでいることも、自覚する必要があるのかもしれませせん。
 論文は、ある問題に対する書き手による思考の結果を、文章(言葉)で表現したものです。人間は、文章(言葉)で問題への思考過程や結果を表現するとき、かならず「疎外」という過程を経ます。疎外とは、自己を他のものにすることであり、自己を外部に表現することです。表現の際に用いられる文章(言葉)は、そもそも他人がつくったものであり、文章(言葉)を用いるには一度自分を失う必要があります。私の論文は、自分の思考の結果を自己でない他のものにして表現したものなのです。先行研究の場合も同じです。
 先行研究との差異は、論文を人間の行為として認識した場合、次のようなことも考える必要が出てきます。私の論文とAさんの論文は、書かれた環境が違い、問題を考察し執筆する際に体験する内容も違います(現在)。そして、その問題を見いだし執筆に至る私とAさんの経緯(過去)、問題を考察し執筆した後の私とAさんの変化(未来)も違います。論文の差異は、書き手の状況(過去・現在・未来)において見いだすこともできるのです。
 論文の差異を文章化された内容のみから見いだすことは、人間の行為の結果としてではなく、当然そこに存在する「もの」として認識していることのようです。逆に言えば我々は、論文を書くことによって、物になってしまう可能性があるのです。
 
 なんだかえらく小難しいことになってしまいました(^_^;)。
 その後、昨日と同じく永原慶二『20世紀日本の歴史学』を読む。
コメント
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