かつて、中野光先生から「題目は、もっと読み手の興味を惹くように工夫した方がいいよ」とアドバイスをいただいたことがありました。当時の所属研究室での指導は、「題目は対象を表すようにひたすら禁欲的に」でしたから、とても印象的でした。最近、あの中野先生のアドバイスをよく思い出します。そのせいか、最近、研究論文の題目がやたら長くなってしまいます。まだまだへたくそということですね(苦笑)。
で、その長い題目の拙稿「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員の問題意識―『東伯之教育』所収の小学校普及・中学校増設関係記事から」(『鳥取短期大学研究紀要』第62号、2010年、11~23頁)が、2010年12月1日付で、ようやく刊行されました。本稿は、今年開催された全国地方教育史学会第33回大会で発表したものを活字化したものです。論文構成は以下の通り。
はじめに
1.『東伯之教育』とは
(1) 編集方針―教育問題改善と気脈貫通を目指して
(2) 編集者―向上心ある師範卒高等小学校教員
(3) 支持基盤―旧久米・河村郡域の高等小学校教員
(4) 記事傾向
2.小学校普及に対する問題意識
(1) 東伯郡における就学率の上昇と課題
(2) 高等小学校の改組・新設・拡充
3.中学校増設に対する問題意識
(1) 明治30年代初頭の東伯郡における中等教育
(2) 久米高等小学校教員による中学校設置論
(3) 中学校設置の必要性
おわりに
本稿は、鳥取県立図書館で見つけた教育誌『東伯之教育』(明治32年1月~明治33年3月分)の小学校・中学校関係記事を用いて、そこに基底する小学校教員の問題意識を明らかにしたものです。同誌は、編集者・筆者ともに小学校教員であり、支持基盤として小学校教員+α(多くは自治体の首長)が支えていました。
明らかにしたのは、教え子や保護者の教育機会に対する切実な思いに共鳴している小学校教員の問題意識でした。それは、私が思っていた以上に強く、研究するごとに驚きの連続でした。また、中学校増設に対する問題意識についても興味深い発見ができたと思います。当時の中学校増設論の関心は、一般的に、地域の経済的・文化的発展への期待に基づいていたと思いますが、『東伯之教育』に記されていたのは、ひたすら教え子の教育機会や進学実態、および保護者の思いに対応した中学校増設論でした。
教育史研究の使命を果たす方法の一つが、できるだけ当時の実態をリアルに把握することだとすれば、本稿は明治30年代初頭の小学校教員の問題意識を再現することを試みたわけですが、少しはその役割を果たせるでしょうか。個人的には、今から100年前の教員もまた、教育問題解決策の案出を子どもたちの利益から発想してきたことを知る機会になりました。明治中後期の教員の人間性に、少し近づけた気がします。
ちなみに、現状は、「台風去れども、未だ落ちつかず」という感じです。気ばっかり焦り、何か忘れているような感じが常にしていて気持ち悪いです。