教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育学史・教育史は教育学になる

2021年09月12日 22時06分00秒 | 教育研究メモ
 大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書、2019年)の「序」に、社会学史それ自体が社会学になることが説明されています。大澤氏によると、社会学は社会現象を説明する学問であり、それ自身が社会現象だから、社会学の歴史はそれ自体が一つの社会学になるといいます。物理学や生物学、または経済学などの自然科学系の学問は、前の説を新しい説に塗り替えていく学問です。そのため、物理学史・生物学史・経済学史などをしらなくてもその学問はできます。一方、社会学史を知らなくても社会学はできますが、社会学は旧説を新説で塗り替えていくだけでなく、過去の優れた社会学者のアイデアを今再検討しても十分意味があることもあります。それは、社会学が近代社会成立とともに誕生した学問であり、現代社会は基本的に近代社会のロジックで動いているからです。また、社会学は同じ問題に何度も回帰して、過去の社会学者が考えたことを現在の我々も考える性質をもっています。また、哲学も社会学と同様だといいます。人間の生き方や世界のあり方には古代も現代も共通する部分があるので、それらを問う哲学は古代においても現代においても同じ問題を問うようになっている、ということでしょうか。
 さて、教育学にとっての教育学史はどうでしょうか。その独自性はさておき、教育学も、社会学や哲学と同じ論理でその学問的意義を指摘できると思います。教育学史は教育学になる。社会学として教育学という社会現象を説明したり、歴史学として教育学という歴史的事実を説明することはもちろん可能です。しかし、過去の優れた教育学説を再検討して教育の本質やそこに表現される規範を考えることも可能ですし、その作業がなにがしかの現代的意味を生じる可能性は十分あります。教育学そのものが近代に誕生した学問であり、現代に通じる問題をたくさん扱っているためです。また、学説そのものだけでなく、教育学の制度(系譜=人的ネットワークなども含む広義の制度)についても同様のことが言えます。教育学史は教育学として研究することで、今を生きる我々にとって意味のある学問となりうると思います。そして、このような学問的方法は、単に可能なだけでなく、教育学として極めて有効です。教育という現象が、社会的・歴史的現実の中で積み重ねられている限り、教育学にとっては、旧説を新説で塗り替えていくこと以上に、旧説を踏まえて新しい文脈の中で考えていくことが重要です。現実に積み重ねられている事実を踏まえない学問は不徹底だからです。(今すぐ意味のある学問に限らず、遠い未来を生きる人々のための学問というあり方もあるべきと思いますが、それはさておき。)
 もう少し対象を広げて、教育学にとっての教育史についても考えてみましょう。教育学史とほぼ同じ論理でその学問的意義を指摘できます。教育史も教育学になる。過去の優れた教育思想を再検討したり、過去の教育制度を研究したりすることで、教育の本質やその規範を考えることが可能です。教育という営みを近代社会特有のものとみるか、人類誕生以来連綿と続けられてきた人間形成の営みの一部としてみるかによって、その範囲は異なりますが、いずれにしてもその記述と考察は教育学としての意味をもちます。
 教育学とは、「教育とは何か」(本質・現象)または「教育とはどうあるべきか」(規範・価値)を考察する学問であり、その結果として生まれた知識・理論の体系です。教育史・教育学史は教育学になります。
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