教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

高校無償化と市場競争原理のつながりを見直し、公立高校のテコ入れを望む

2025年03月12日 23時55分00秒 | 教育研究メモ
 高校無償化について与野党三党合意が議論になっていますが、ここにきてようやくその目的を明瞭に語る政治家が現れました。


 記事からは、日本維新の会が高校無償化を競争原理によって提唱していたことがわかります。予想通り、やっぱりそうだよねと、高校無償化の原理を見極めることができました。与党も市場競争原理による新自由主義的方向性を強くもっていますので、微妙な差異はあるにしても、この線で高校無償化策に合意したといったところでしょう。高等教育無償化も議論されていますが、今の日本で合意に達するとすれば競争原理によるものと予想されます。彼らがそのように考えるのは各党の基本理念を考えれば納得できます。

 ただ、それでも私は、教育政策を市場競争原理のみで考えるべきか、と問わざるを得ません。上の記事で、前原氏が「高校教育に関しては、(無償化によって)私学を選ぶ子どもが増え、公立の地盤沈下につながるというふうに言われることも多いのですが、僕はそれでいいじゃないか、と思うんです。」と語っているところに、私は議論の余地が大いにあると思います。私は、義務教育ではない高校の政策であっても、私立偏重・公立淘汰の方向に極端に舵を取ることはよくない、と考えています。
 必要な私立高校が増えるのはよいと思います。また、公立高校が統廃合されるのも少子化・人口減少社会ゆえに致し方ない部分はあります。しかし、市場競争原理によって公立高校が淘汰されればよいという考えには賛同できません。公立高校は、私立高校にはできないこと、とくに市場競争原理では大事にできないことをできる貴重な制度です。公立高校と私立高校の設置廃止再編を市場競争論理のみで判断すべきではありません。

 問題は高校教育の質の良し悪しを判断する規準にあります。現在の市場競争原理の視野に入っている主な規準は、学力テストの平均点や有名大学への進学数、部活動の大会出場数などです。これらの規準はいずれも「有用な人材になり得る生徒」を評価するものでしかなく、その規準に当てはまらない生徒を評価するものではありません。むしろ規準に当てはまらない生徒は排除したほうがよいとすら考えられてしまうきっかけをつくってしまいます。私立高校が規準に当てはまらない生徒を十分包摂できるならばよいのかもしれませんが、現在の私立高校は市場競争原理にさらされざるを得ないので、利益の得にくい事業に取り組める学校法人をそう多くは望めません。高校無償化がそういう学校法人を支えるように機能すればよいかもしれませんが、そういう目的での無償化ではなかったようです。
 もちろん、現実の公立高校のうち、「有用な人材になり得る生徒」だけでなく、その規準に当てはまらない生徒を十分に包摂できている学校が実際にどれだけあるか、という問題もあります。高校教育の多様化が進められている現在において、公立高校の質を判断する規準は複雑化していますが、市場競争原理から自由ではいられません。市場競争に打ち勝てる公立高校もありますが、そうはいかない公立高校もたくさんあるでしょう。無償化によって市場競争原理にますます絡めとられやすくなるので、これから公立高校の正念場は続くでしょう。公立高校の在り方はもっと多様な観点から議論されるべきであり、もっと多様な規準を想定すべきです。高校関係者や教育学者はもちろんですが、政治家や国家・地方行政官の教育認識・教育観が問われます。
 進学者数や学力テスト等の実績は教育成果を測る唯一の指標ではありません。教育条件を整えることは教育政策上の重要課題ですから、親の経済的事情に配慮して進学先の選択の自由を保障することももちろん大事ですが、公教育の課題はそこで終わりではありません。その先にある本当に応えなければならない課題は、例えば、国民・社会の統合や基本的人権の保障などがあります。公立の授業料は安い、私立は高い、ということが問題の本質ではないのです。

 資本主義経済の原理、人材(労働力)確保の原理のみで教育政策を決めてしまうやり方は、不十分であると考えます。新自由主義や社会経済資本投資型の原理が教育政策を必要とするのは当然ですが、予算が下りるからといってそれのみで教育政策を決めてしまうことの問題を考える必要があります。教育の目的は有用な人材育成のみにはとどまりません。「人材」とみなされえない人々も含む、すべての人の教育を受ける権利や学習権(人権の中核)を保障することも教育の目的です。
 「人材育成」と「人間(性)育成」とでもいうべき目的のバランスを、現実の教育政策においていかにとるべきか。義務教育はもちろん、義務教育でない高校や高等教育でどのようにバランスをとっていくか。このたびの高校無償化策実施をきっかけに、われわれ日本人は改めて考え直すべきだと思います。そのためには、経済学や政治学だけで教育政策を考えるわけにはいきません。教育について幅広く徹底的に考える教育学の視点・考え方がどうしても必要です。

 なお、私がいま最も考えるべきだと思うのは、公立高校のテコ入れです。「高校無償化によって人々は私立高校を選ぶはずで、公立高校は淘汰されていく」という認識自体がおかしいと思っています。公立高校にしかできないこと(地域によって異なるはずです)を見据えると同時に、そのために実践できる高校教員を確保し、大事に育てる必要があります。優秀な高校教員を公立高校に引き留め、誘致し、採用、配置する必要があります。長い目で見た育成・採用計画が必要です。
 いま、公立高校から教員が続々と流出しています(運営の厳しい私立高校から公立高校へ教員が流れる事実も一部にあるようですが)。「職場環境として学校より企業の方がよい」とか、「職場環境として公立より私立の方がよい」という認識は、当然視するべき絶対的なものではなく、この数十年のうちにできてしまった歴史的に相対的なものです。事実、かつて優秀な教員は公立高校に勤めたがったのです。
 いま必要なのは、優秀な教員が長く勤めたくなる公立高校づくりです。自治体や地方議会は、無償化によって得られるはずの財政的安定をもって財源を公立学校以外に回すのではなく、さらなるテコ入れを公立学校に向けてほしいと思います。各教育委員会が教員確保(魅力向上)策として「やりがい」の強調や採用試験前倒ししか選択できない現状を変えてほしいものです。








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