さて、昨日の続きです。
出典を示されるときには、以下のように示してもらえると幸いです。
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白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月4~11日。
または
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?(1)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月5日。
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える―」 より
1.18世紀後半ヨーロッパの啓蒙主義教育思想
(1)啓蒙思想の目指した教育
フレーベルは、1782年のオーベルヴァイスバッハ(現在のドイツ・チューリンゲン)に生まれた。彼が生まれ、青少年期を送った18世紀後半のヨーロッパでは、工業化の進展によって旧来の階級社会が崩壊し始めていた。それに代わる市民社会は未成熟であり、人間関係・存在の内的基盤は不安定になっていた。
このような時代をよりよく生きるために、この時期、啓蒙思想が発展した。啓蒙(英enlightening/独Aufklarung/仏lumiere)とは、「灯り」をともして「暗闇」を明るく照らすこと、または光そのものを指す言葉である。この場合、「暗闇」とは無知・偏見・迷信の支配する旧習を指し、「灯り」とは人間の理性を指す。理性とは、ものごとの本質(真理)を論理的に把握する人間の判断力であり、本質を直観し、認識を体系化して関連づけ、行動を制御する知的・道徳的能力のことである。啓蒙は、この理性によって無知・偏見・迷信に基づく旧習を取り払い、世界の真理を追究しようとする態度と言える。
当時のヨーロッパ社会では、キリスト教が政治権力と強固に結びつき、社会を統合・支配していた。啓蒙思想は、キリスト教とは異なる立場から人間や世界を考えた。当時のキリスト教と比べた時、啓蒙思想の主な特徴は次の2つある。
第1に、宗教的価値・権威に対して批判的な姿勢をとった。啓蒙思想は、キリスト教の彼岸主義に対して、現世主義・世俗主義の立場に立った。すなわち、「人間は天に召されることで救われる」というキリスト教とは異なり、啓蒙思想は「人間はこの世で十分幸福になれる」と主張したのである。この意味で、理性は、生きながら幸福になるために必要な能力であった。
第2に、啓蒙思想は人間の理性を絶対的に信頼した。当時のキリスト教は、世界について、人知を越えた超越的・神秘的原理に支配されたものと考えた。そして、世界を把握するには、信仰による飛躍と、社会における伝統の力とが必要だと考えていた。しかし、啓蒙思想は、このキリスト教の世界観を批判し、「世界はすべて人間の理性によって把握できる」と主張した。いわばこれは、人間の可能性を信頼した主張といえる。
このように、啓蒙思想は、現世主義と人間の可能性に対する信頼に基づいて、理性によって無知や旧習を取り払う態度を追究した。理性的人間の形成は啓蒙思想において重要な課題であり、教育は重要な役割を期待された。啓蒙思想は18世紀後半において大きく花開いたが、I・カント(1724~1804)は、この時期に啓蒙思想の完成を導いた。ケーニヒスベルク大学の哲学教授であったカントは、1776年から教育学の講義を始めている。カントは、身体が成熟していても、他人に身を委ねて自分で考えない状態を「未成年状態」と呼んだ。そして、人間がこの「未成年状態」から抜け出すには、思考力(悟性)を用いることが必要だ。人間は、自分で考えることで、善悪をわきまえる知恵(理性を法則に合った形で使用する考え方)に至ることができ、人間の道徳的啓蒙を実現することができる、と考えた。カントにとって、知恵は他人から注入されるものでなく自分で身につけるものであり、啓蒙や道徳化は自分で行うものであった。このように考える時、教育はどのような行為として論じられるか。
カントの『教育学講義』(1803)では、次のように述べられている。人間は、教育によってはじめて人間となることができる。人間が人間である以上は、幼少時から理性に従うことに慣れされなければならない。教育は、養育(養護・保育)、訓練(訓育)、および教授・指導(陶冶)という3つに分けられる。養育とは、子どもの持っている能力を上手に使えるように両親が配慮することである。訓練とは、「動物性を人間性に変えて行くもの」である。人間は自分で自分の身の処し方を計画しなければならないが、「素材のままで世に送り出されて来る」ため、最初は他人に世話をしてもらわなければならない。訓練は、人間が動物的衝動によって人間性の法則から逸脱しないように予防し、「法則の拘束を感じさせる端緒を作る」ものである。しかし、子どもが真に啓蒙されるには、養育・訓練だけでは不十分であり、子どもが自ら思考することを学ぶことが重要である。学んだことを実践するように、積極的に指導することが必要である。また、教育は、目的達成のために十分な能力・技術(技倆)だけでなく、「善さ」(すべての人に必然的に目的でありうる目的)だけを選択する心的傾向を獲得するように行うべきである。創造主は、人間に「善きものに向かうあらゆる資質」を与え、その資質を発達させる義務を課した。教育者の仕事は、このような人間の内なる諸資質を調和的・合目的的に発達させ、そのような発達を全人類において実現することである。これは個人ではできない。教育の改善は、人類全体の仕事である。以上のように、カントは、理性に従って自分で考え、ひたすら善い目的を選んで自分の能力を使いこなそうとする行為を直接・間接に支えることを、教育と呼んだ。
18世紀後半ヨーロッパの啓蒙思想は、主体的・道徳的に判断・行動する理性的人間を形成することを目指し、その調和的発達を支えるために教育を重視した。その先には、人間および全人類の道徳化が目指されていた。フレーベルは、このような思想的傾向のなかで青少年時代を過ごし、イエナ大学に進学して自然科学を学んだ。
図2 I・カント(Kant, Immanuel)(1724~1804)
出典:下田次郎『西洋教育家肖像』金港堂、1906年。
【参考文献】 略 ※(0)を参照
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