現在、故あって「単級教授法」というものを、仕事の合間合間を縫うように研究しています。
明治期には、就学児童の数に対して教員の数が足りないため、一人で複数学年の児童を教授する必要がありました。教員数の不足の原因はいろいろありますが、一番根本的な原因は、地方で負担されていた小学校教育費が不足していたからです。各地方は、教育費が不足する中で、小学校教育を行わなければなりませんでした。そこで、人件費を節約するため、教員数を減らし、給料の高い正教員より給料の安い補助教員(「授業生」という、教員免許をもたない非常勤講師のような立場)を雇うという工夫をしました。結果、明治の小学校は、正教員を充分に配置できず、各学校での教育の質も政府や府県が保証できないという状況でした。当時は、小学校教育の意味を理解しない人々が多くいましたので、そんな状況では小学校教育に意味がないととられ、国民皆学などとても実現させられません。そのままで放っておけば、日本は、国民を形成できずにバラバラの人々の集まりのまま、西欧列強と比肩できるような国民国家を構成できず、いずれ弱肉強食の国際情勢のなかで滅びてしまいます。このような危機的状況を打開するため、明治20年代に入ると、単級教授法が政策的に必要とされていきます。
単級教授法とは、単級小学校の教授法であり、1つの学校に1つの学級しかない小学校で1人の教員が教授する方法です。当時の小学校は3年制または4年制ですから、単級小学校には3学年または4学年の児童がいました。普通は、彼らを3つか4つの学級に分けて、1組を正教員1人、別の2組から3組をそれぞれ補助教員2人から3人が教授を受け持っていました。このような現実に対して、単級教授法の考え方は異なる小学校教育のあり方を突きつけました。すなわち、補助教員にそれぞれ学級の教授を任せるのではなく、正教員が一人で児童全員に教授させるべきであり、その方が教授の効果は高い、とするものでした。これは、補助教員を2人余分に雇う代わりに、高い給料を払って力量の高い(と保証される)正教員を雇う方がよいという論理に基づいています。そのために、1学年ごとの児童を組織してつくられた3つから4つの「組」を1つの学級に設定し、この各組を1人の教員が1つの教室で同時に教授するのです。
単級小学校で教員が向き合うのは、学年も年齢も違う児童たちです。当然、第1学年の児童には第1学年の、第2学年の児童には第2学年の教育目的・内容を実現しなければなりません。教員は同時に最大4学年の授業をしなければなりませんでした。教員が児童全員に同じことをしていては、まったく授業になりません。低学年に合わせた授業をすると、つまらなくなった高学年の児童は隣の児童の邪魔を始め、高学年に合わせると、低学年の児童はさっぱり理解できなくなります。そこで編み出したのが、1つの組(学年)に直接教授する間に、他の2つの組には自習(自働練習)させ、それを1時間の授業の中で直接教授組と自習組とを順次交代させていくという荒技でした。低学年の組に読本の解説をする内に、他の2組には習字をさせる、というような授業を行うのです。単級小学校の教員は、1時間のうちに、3つの授業を同時に進行させなくてはなりませんでした。
単級教授法には、学校訓育法としての意味も不可分のものとして含んでいました。すなわち、1つの学校・学級において、密接な共同生活を営み、1人の教員の薫陶を受けながら、自ら事を営む習慣を身につけるという意味です。明治初期の知育偏重教育を批判し、小学校令期の道徳的習慣の形成を目指す訓練に教育的意義があることを示しました。また、教授の効果を上げるという意味に限定されていますが、教授法と学級(児童集団)とを結びつけ、教授法における児童集団の把握を促しました。所与の教授内容の定着という限定内ですが、児童の自治的自律的練習の教育的意義を認めています。明治20年代に洗練されていった単級教授法は、歴史的には、教育費節減・教員数確保や単なる教員の妙技にとどまりませんでした。明治30年代以降には、児童の個性を尊重する教育法が編み出されていきますが、単級教授法にはその萌芽を見出すことができます。
…というような意味を持つ、「単級教授法」を研究しております。
明治期には、就学児童の数に対して教員の数が足りないため、一人で複数学年の児童を教授する必要がありました。教員数の不足の原因はいろいろありますが、一番根本的な原因は、地方で負担されていた小学校教育費が不足していたからです。各地方は、教育費が不足する中で、小学校教育を行わなければなりませんでした。そこで、人件費を節約するため、教員数を減らし、給料の高い正教員より給料の安い補助教員(「授業生」という、教員免許をもたない非常勤講師のような立場)を雇うという工夫をしました。結果、明治の小学校は、正教員を充分に配置できず、各学校での教育の質も政府や府県が保証できないという状況でした。当時は、小学校教育の意味を理解しない人々が多くいましたので、そんな状況では小学校教育に意味がないととられ、国民皆学などとても実現させられません。そのままで放っておけば、日本は、国民を形成できずにバラバラの人々の集まりのまま、西欧列強と比肩できるような国民国家を構成できず、いずれ弱肉強食の国際情勢のなかで滅びてしまいます。このような危機的状況を打開するため、明治20年代に入ると、単級教授法が政策的に必要とされていきます。
単級教授法とは、単級小学校の教授法であり、1つの学校に1つの学級しかない小学校で1人の教員が教授する方法です。当時の小学校は3年制または4年制ですから、単級小学校には3学年または4学年の児童がいました。普通は、彼らを3つか4つの学級に分けて、1組を正教員1人、別の2組から3組をそれぞれ補助教員2人から3人が教授を受け持っていました。このような現実に対して、単級教授法の考え方は異なる小学校教育のあり方を突きつけました。すなわち、補助教員にそれぞれ学級の教授を任せるのではなく、正教員が一人で児童全員に教授させるべきであり、その方が教授の効果は高い、とするものでした。これは、補助教員を2人余分に雇う代わりに、高い給料を払って力量の高い(と保証される)正教員を雇う方がよいという論理に基づいています。そのために、1学年ごとの児童を組織してつくられた3つから4つの「組」を1つの学級に設定し、この各組を1人の教員が1つの教室で同時に教授するのです。
単級小学校で教員が向き合うのは、学年も年齢も違う児童たちです。当然、第1学年の児童には第1学年の、第2学年の児童には第2学年の教育目的・内容を実現しなければなりません。教員は同時に最大4学年の授業をしなければなりませんでした。教員が児童全員に同じことをしていては、まったく授業になりません。低学年に合わせた授業をすると、つまらなくなった高学年の児童は隣の児童の邪魔を始め、高学年に合わせると、低学年の児童はさっぱり理解できなくなります。そこで編み出したのが、1つの組(学年)に直接教授する間に、他の2つの組には自習(自働練習)させ、それを1時間の授業の中で直接教授組と自習組とを順次交代させていくという荒技でした。低学年の組に読本の解説をする内に、他の2組には習字をさせる、というような授業を行うのです。単級小学校の教員は、1時間のうちに、3つの授業を同時に進行させなくてはなりませんでした。
単級教授法には、学校訓育法としての意味も不可分のものとして含んでいました。すなわち、1つの学校・学級において、密接な共同生活を営み、1人の教員の薫陶を受けながら、自ら事を営む習慣を身につけるという意味です。明治初期の知育偏重教育を批判し、小学校令期の道徳的習慣の形成を目指す訓練に教育的意義があることを示しました。また、教授の効果を上げるという意味に限定されていますが、教授法と学級(児童集団)とを結びつけ、教授法における児童集団の把握を促しました。所与の教授内容の定着という限定内ですが、児童の自治的自律的練習の教育的意義を認めています。明治20年代に洗練されていった単級教授法は、歴史的には、教育費節減・教員数確保や単なる教員の妙技にとどまりませんでした。明治30年代以降には、児童の個性を尊重する教育法が編み出されていきますが、単級教授法にはその萌芽を見出すことができます。
…というような意味を持つ、「単級教授法」を研究しております。