「部派仏教」の中の「上座部・テーラヴァーダ仏教」は、今でも東南アジアの諸国に伝わって残っています。
最近、そうしたテーラヴァーダ仏教、特にその瞑想法の代表的なものであるヴィパッサナーを日本に紹介する方が何人もおられて、実践に参加する方も増えてきています。
私の研究所の講座でも、坐禅とヴィパッサナーの違いなどについての質問が時々ありますので、ここで参考に、昨年3月18日の中級講座でのQ&Aを再録しておきたいと思います。
質問者:
禅定の重要性というか必要性というのは、今日あらためてああそうなんだな、と確認してよかったと思いました。
それで、たしかに人にも薦められるようにはなってきたな、という感じがします。
ただ、自分自身の体験では、ヴィパッサナー瞑想に参加したとき、ひじょうに、深いというかおもしろい体験をいろいろさせていただいて、その後、坐禅をやったりヴィパッサナー瞑想をやったりと、自分で使い分けてやったりはしているんですけれども、瞑想もいろいろあるので、どれがいいのかなという疑問があります。
いろいろ探しているとたぶん一生終わっちゃうんだろうな、ということもあるので、そのへん、「いろいろある中で坐禅がおすすめ」という理由をちょっとお聞きしてみたいです。
岡野:
はい。とくに最近、サングラハの中でもその周辺の方でも、ヴィパッサナーに行かれる方が多くて、みんないい体験をしてきて、「坐禅ではなかなかうまくいかないので、ヴィパッサナーのほうがいいんじゃないですか」という方がよくいらっしゃいます。
それからたとえばヨーガの瞑想もあったり、チベット密教の瞑想もあったり、日本ではその他いろいろ、探せばできるところがありますよね。
で、くまなく見たわけではないんですが、なるべく臨床的に公平に、かつ理論的にも妥当に、という目で見るかぎり、人間の深層意識まで浄化するということが理論としても対象としてもはっきりおさえられているのは、やっぱり大乗仏教、なかでも唯識だ、と私は評価しています。
しかし、残念ながら唯識は理論しか伝わっていません。
そこで、臨済宗系の坐禅をしてみると、まさにこの理論とこの禅定の方法はぴったり対応している、と私は感じてきました。
ヴィパッサナーとヴィパッサナーの理論は、やはり切り離しがたいものがあります。
私があえてヴィパッサナーをやらないのは、率直にいうと私はあの理論では仏教理解が不十分だと思っているからです。
ちょっと難しいことをいうと、『清浄道論(ヴィシュッディマッガー)』という、難しい、ひじょうに部厚い、テーラヴァーダ仏教の瞑想理論の本があります。
私は、ぜんぶを細かく読んではいませんが、概説は読んでいます。
その範囲で『摂大乗論』などと比べながら、「ヴィシュッディマッガーでは理論的整備が不十分なんじゃないか。やはりマナ識・アーラヤ識の問題点をちゃんと捉えていないとだめだな」と思うんです。
繰り返しますが、理論と実践は切り離せないんです。
ヴィパッサナーに行くと、指導者の方はそういう説明をするでしょう? 唯識的な深層心理の浄化の説明はありませんよね?
質問者:たしかにそうですね。
岡野:
そういう説明をしないということは、そこから「大乗の菩薩になる」という方向性も出てこないということです。
実践できているできていないは別にして、『摂大乗論』とか大乗仏教はどこを目指しているかというと、「慈悲が出てこなければ、それはほんとうの智慧じゃない」という、教学的な押さえがひじょうにしっかりとしているんです。
だから、原点に帰れる。
私は、たえず原点に帰れる理論的な準備ができているという意味で、やっぱり大乗仏教、とくに唯識と坐禅というセットのほうが、中長期で見たら人格をより深く形成するだろうと推測しています。
でもまあ最近、みなさんがあんまりヴィパッサナーでいい体験ができたといわれるので、それなら、方法論として入り口のところでみなさんに使ってもらうようにしてもいいかなという気は、ちょっとしてきてはいます。
でも、そのときに方向づけとしてはちゃんと、「でもここから慈悲が出てこなかったら意味ないですよ」という話をしながら、というかたちです。
つまり、私にとっては論理療法を取り入れるのと同じアプローチで、方便の一つとして、「坐禅ではなかなか行けません」という人に、ヴィパッサナーのテクニックも使ってもいいかなとは思っていますけどね。
でも、論理療法一つでも、ちゃんとみなさんに方便として使っていただけるようにご指導できるところまで勉強するのにも、なかなか手間がかかりましたからね。
ヴィパッサナーも自分でちゃんと実践して、場合によってはリトリートにも行って……あんまり行きたくないですけどね。(笑)
行くと指導者の方に反発して、「あなたには指導してほしくないですよ」ってマナ識反応をしそうですから。(笑)
(*最近、武蔵野大学の「仏教と心理学の協力」というフォーラム*で、井上ヴィマラさんと会って、いろいろ話しているうちに、ヴィパッサナーやテーラヴァーダ仏教について、少し評価を変えなければならないかな、と思うようになっていますが、まだちょっと勉強を始めたばかりで、まとまっていません。)
それから加えて言えば、それもちょっと時間がかかるからすぐにできないし、私ができるかどうかわからないんだけど、方便としては、入りやすさでいえばむしろ気功、太極拳のほうが、もっといいかなという気がしています。
気功、太極拳は、ちゃんとした人たちは、あれは動く禅・「動禅」というふうに捉えていますし、深くいけば坐禅同様の境地に行ける可能性は十分ある方法論だと思いますし、じっと坐っていて「脚がしびれた」というよりは、「身体を動かして気が流れて元気になりました」(笑)というほうが現代人には入りやすいかな、と思いますしね。
だから、サングラハ青森の羽矢先生は気功をやっているわけです。
中国にも何度も行って学んで、指導者としての資格を得て、授業の合間に学生を高原に連れていって気功をやらせるという授業をやったりしておられて、その成果を聞いてみて、「ああ、なかなかいいな」と思っています。
でも、そういうことは今言ったとおり、人に指導できるところになるまでには習得に時間がかかるので、すぐにはできませんよね。
私は、とにかく三十何年、四十年近く坐禅でやってきているから、他のものを取り入れてこれと同じだけの質にするのは、ちょっともう間に合わないなという気がするので、「私のところに来る人は、実践の方法としては坐禅でやってください」ということです。
で、ご自分の向き不向きがあって、「いや、ヴィパッサナーのほうがいいです」とか、「太極拳のほうがいいです」とか、「ヨーガがいいです」とかという方は、それはそれでやっていただいて、「それでは理論が満足できない」という場合は、「理論はここで勉強して、実践はそっちでやりたいという人は、それでいいですよ」というのが、サングラハのポリシーなんです。
だからMくんも、実践法としては「坐禅ではなかなか行かないから」といって他の方法論をやってもらっても、別に私は睨みませんよ。
「Mくん、何よそ事やってるんだ」(笑)とかは思わないから、自分に向いたのでやってもらっていいと思います。
それからもう一つ言わせてもらうと、やはり文献も含めて禅をちゃんと吸収しないと、せっかくの日本文化の伝統を見失ってしまいます。
ヴィパッサナーは東南アジアが本家ですから、ヴィパッサナーをやるといつも東南アジア文化に引け目を持つことになるんじゃないでしょうか。
禅をやると、もとは中国が本家だといっても、ちゃんと残っているのは日本ですから、引け目を持つ必要がないんです。
とにかく禅というのは、鎌倉時代から営々と日本文化のかなり中核的なものとして伝わってきています。
しかも、日本の伝統文化のひじょうに質の高いものは、たとえば茶道でも華道でも剣道でも、○○道といって、背後に禅があるものが多いんですね。
だから、坐禅をやりながら、禅の文献を読みながら、そういうものが日本文化の源流だということを実感するという意味では、「坐禅をはずすと日本文化のアイデンティティをちゃんとつかめないぞ」という判断ももう一つあるんですよ。
そういうわけで、私はどうしても坐禅にプラスの意味があってこだわっているわけです。
質問者:
感想なんですが、こちらにご縁があるから坐禅をやっていきたいなということはあったんですが、お話を聞いて、それだけじゃなくて、そういう意味で日本人としてのご縁もすごくあるんだな、と思いました。
岡野:
そうなんですね。
鈴木大拙先生が『禅と日本文化』(岩波新書)という本を書いておられます。
ちょっと禅文化が日本文化のすべてみたいにいっていて、いいすぎのところがあると思うんですが、でも読んでみて、確かにそうだと思います。
鎌倉から室町期にかけてできた、いわゆる「和」・「和風」といわれる文化の原点を見ると、みんな背後に禅があります。
茶道もそうだし、水墨画もそうだし、華道も、盆栽まで――盆栽も禅の精神が背後にあるようですよ――そういうふうなものがみんなそうなんです。
だから、禅を見失うということは日本文化の原点を見失うことになるので、それは、方法論として入りやすいとか、感情のコントロール法として効果が出るのが早いとか、気持ちがいいとかということには代えられないという思いが強くある、ということです。
あ、今日の話はわりに説得力がありましたね。(笑)
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