私たちが「私の性質」だと思っているものは、実は変わらないものではありません。
例えば、自分では「私は割にいい人間だ」とか思っていても、ある人にとっては「イヤなヤツ」かもしれません。
少数ながらいてくださるらしい私のファンには、「すごくいい人」に見えているのかもしれません(そういうのを「善意の誤解」といいますけどね)。
例えば、おなじ風景が、人によって美しく見えたり、懐かしかったり、何てことなかったり、つまらなかったりします。
その人との関係によって、性質は変わって感じられるのです。
そういう意味で、変わることのない「本性」はないのですね。
これは、「縁起だから無自性である」と表現できるでしょう。
そして、すべてのものの性質は関係によって変わるだけでなく、時間によって変わります。
例えば、日本人にとってもっとも典型的な「無常」の象徴の一つ、桜の花を考えて見ましょう。
冬の寒さの中でも、桜の枝先を見るともう固い小さな「蕾」がしっかりとついていて、春を待っています。
やがて春が来ると、「蕾」ではなくなって、3分咲き、5分咲き、8分咲き、満開の「花」となるでしょう。
そして春が深まると、はらはらと散り始め、「花」から「花びら」へと変わっていきます。
地面に落ちた当初は「花びら」ですが、次第に黄ばみ、茶色に変色し、やがて「ごみ」になります。
それから、掃き集められて捨てられるものもありますが、その場に残っていれば、やがて腐食して、土に帰ります。
時間の中で、「花」でなかったものが「花」になり、そして「花」でなくなくなるというふうに、変化していきます。
桜の花もまた、「無常だから無自性である」ということになりますね。
そして、ただ変化するだけではなく、「花」としては存在しなくなるのです。
あらゆる性質のうちでもっとも基本的な「存在する」という性質が、「存在しない」というふうに変わっていくのですから、「実体」の第3番目の定義に反しています。
花もまた、時間の中で変化していくものであり、実体ではない、「無常だから空である」というほかありませんね。
こういうふうに、「縁起」と「無自性」と「無常」という3つの概念は、相互に結びついています。
というよりは、大乗仏教の人々がおなじ1つの世界の姿(如)をこういう3つの確度から分析-認識したということなのです。
さて、ここまでお話しすると、記憶力のいい方は、「なんだ、空と無我とはおなじことをいってるのか?」という疑問を持たれるのではないでしょうか。
そうです、ほぼおなじことをいっているのですが、ちょっとだけニュアンスが違うのです。
そこに、ブッダから部派仏教へ、さらに大乗仏教へという発展があるのですが、長くなるので、その話は次回にしましょう。
*写真は、去年の桜です。
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