「ありたい」と「あらねばならない」

2006年01月22日 | 心の教育

 大乗仏教の菩薩の願をまとめたものとして有名な「四弘誓願(しぐせいがん)」というのがあります。


 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

  私 訳

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う


 こうした誓願・菩薩の理想は驚くべく高いものですし、私も感激的にすばらしいと思います。

 しかし、こんなものを下手に真に受けたら――論理療法の用語でいうとmust化、つまり「ねばならない」という強制的な倫理として受け取ると――つまらないことになりかねません。

 つまらないことの第1は、「私なんかには無理だ」と思って、引いてしまうことです。そういう心のことを「退弱心(こにゃくしん)」といいます。

 しかし「無理だ」と思ってしまうと、実際にできなくなるというのが、潜在力の法則ですから、それはとても損な生き方です。

 どうせ一回きりの人生ですから、できるだけ人間として豊かになる、深くなる、広くなるという人間成長をし続けないと、もったいないのではないでしょうか。

 第2は、「私は仏教を学んでいるのだから、そういう菩薩であらねばならない」と思い、しかも自分の現状を見ると、「それなのに、私はそうではない」と、劣等感や罪悪感を感じてしまうということです。

 劣等感や罪悪感も適度であれば、それをバネにして飛躍・向上することができますが、多くの場合過度になって、ただ「オレはダメなヤツだ」とか、「私はいけない人間です」と自己非難をして落ち込むことが多いのです。

 しかし、自己非難による落ち込みは、何の役にも、誰のためにもなりません。

 もちろん人間、反省は必要ですが、自己非難は不要・無用です。

 第3は、これがいちばん恐いのですが、実際はそうではないのに、「私はそういう〔境地の高い〕菩薩だ」と高ぶり思い込んでしまうことです。

 そうすると、自分の思い込みでいろいろなことを人に押し付けることを「慈悲」だと錯覚しはじめます。

 この錯覚は、「慈悲(=いいこと)だから、人に押し付けてもいい」、「自分の思いは慈悲なのだから、人を自分の思いどおりにしてもいい」という恐ろしい結論に到りかねません。

 この結論は、正義や神仏の名による犯罪や殺人や戦争の口実にまでなりえます。

 仏教も含む宗教すべての恐ろしさは、こういう論理のすり替えが容易に行なわれうるということです。

 そういう宗教の恐ろしさをたくさん見聞きしてきた結果、私は、こう提案することにしています。

 「菩薩でありたい」と強く願うのはいいことですが、「菩薩であらねばならない」と倫理化・must化するのや、まして「私は〔境地の高い〕菩薩である」と錯覚するのは、ぜひ、やめましょうね、と。

 空の智慧と慈悲というのも、いつの日にか行きたい遥か彼方の憧れの地にしておいて、行かねばならない義務的な目的地にしたり、まして今いる場所と取り違えたりしないように、気をつけたほうがいいんじゃないでしょうか、と。

 そんな気持ちもあって、四弘誓願を超意訳(「超訳」というのは商標登録されているそうなので)してみました。


  超意訳 「四つのおおきな願い」

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。


 *この4つの言葉は、それぞれの後に(なるべくそうなるように努力しよう)という気持ちを補って読んでください。



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コメント (5)
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