去年の夏は記録的な暑さで、この冬は記録的な豪雪です。
「異常気象」というほかありません。
雪のために亡くなられた方がかなりの数になっているというニュースを聞くと、ほんとうにお気の毒だなという思いと、改めて自然は厳しいなという思いが、心を巡ります。
しかしとはいえ、記録的な暑さも過ぎていき、記録的な雪もやがて春が来て、溶けて消えてしまうでしょう。
亡くなられた人のことをお気の毒だなどと他人事のように言っている私も、やがて確実に亡くなられた人の数のうちに入ることになっています。
好むと好まざるにかかわらず=私たちのつごうや願いと関係なく、すべては変わることのない「実体」ではなくて、さまざまに変化していく「現象」なのです。
「無我だから空である」という、一見、同義語の反復のように思える定型句があります。
私も最初にこの句を読んだときは、「なぜ、わざわざこんな同義語反復のようなことをいうんだろう?」と疑問に思ったものです。
で、いろいろな文献を読んだのですが、私の読んだかぎりでは、あまりぴんとくる説明がありませんでした。
そこで、自分でいろいろ考えた結果、こう解釈すればいいかな、と思ったのです。
「無我・非実体」というのは、原始仏教から部派仏教まで一貫した考え方であり用語ですから、それをそのまま使うだけでは、大乗仏教の独自性を印象づけることはできません。
一つ、大乗仏教はそれ以前の仏教を「含んで超える」ものなのだという主張が、「空」というコンセプトを選んだことの背景にあるように思えます。
「空」というコンセプトには、「縁起」、「無自性」、「無常」、そしてこの「無我」(さらに「苦」)というコンセプトがすべて一言に込められている、といっていいようです。
縁に依らないで存在するもの、変わらない本性を持っているもの、永遠に存在するもの、実体だといえるようなもの、そういったものは「何もない」という強烈な全否定の思想が、「空=ゼロ」という言葉に託して表現されたのだ、と私は解釈しています。
そこで、あえて同義語反復にも聞こえかねない、「無我だから空である」、つまり「実体として存在しているものは何もない!」という言い方もしたのでしょう。
そこには、前のものを徹底的に超えようとする、非常にラディカルな――「根源的・徹底的」と「烈しい・過激」という意味があります――否定の精神が現われています。
善し悪し、功罪、好き嫌いは別にして、そういうラディカルさが、大乗仏教の魅力になってきたのではないか、と私は思うのです。
そのラディカルさが、私たちに損得、幸不幸を超えて、大自然に許されているかぎり精一杯生きて、死ぬべきときには死ぬという、まっすぐな生き方の道――そしてそれこそが気休めでない救いになる道――を示してくれている、と感じるのです。
「無明」と「取・執着」を徹底的に全否定した時、かえってほんとうに生きて死ぬ道が見えてくる、生と死をひっくるめた全肯定が可能になる、というのが、「空」というコンセプトを使って、大乗仏教の菩薩たちが私たちに伝えようとしたことだったのではないでしょうか。
ま、ちょっと、ラディカルすぎるかな、厳しすぎるかな、という気もしないではないですけどね。
あ、ところで、ネット学生のみなさん、私の書き方があまりにもストレート、本格的、ラディカルで、コメントしにくいという陰の声もあるようですが、ぜひ、「すごい!」とか、「わかった…ような気がする」とか、「わかんないーっ」とか、「今日の話はつまらん」とか、一言でも気軽に感想をコメントしてください。
よろしくっ!!!
*写真は去年のイヌフグリの花、春を待つ心です。
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