怒り・「忿」は、自分が他と分離し対立していると思っている時に起こる心の現象です。
自分ではない他のもの(者・物)が自分の思いどおりにならないと、どうしても、どうしようもなく腹が立つのです。
これは、病気のもっとも目に見える症状に譬えられるでしょう。
それは、私たちの意識がもともと自分の思いどおりにならないといつでも腹を立てる可能性・「瞋」(しん)という根本煩悩を抱えているからです。
「私の思いどおりにならないことがあった場合、私が怒るのは当たり前、当然の権利ではないか」という深い深い思い込みです。
瞋という基本的な心のあり方は、きっかけがあればいつでも忿という現象を生み出してしまうのです。
そして、それにはマナ識の我癡・我見・我慢・我愛というより根本的で無意識的な根っこがあります。
私がいちばん可愛い、私がすべての依りどころ、私は私であって、他のものとは関係ないという思い込みがあれば、あらゆるものが私を中心にしてめぐるべきだ、すべては私の思いどおりになるべきだという気持ちになるのは当然です。
怒りという症状の奥底にはマナ識-アーラヤ識における無明・煩悩という根源的な病因・病原があります。
そしてマナ識と意識が共同して作り出したカルマ――共同作業ですね――は、アーラヤ識に蓄えられ、こびり付き、ほとんど解けそうもないと思えるしがらみになり、そこから新たな煩悩のカルマがまた生えてきます。
善の場合(そしてこの後お話ししていく覚りに向かうための6つの方法・六波羅蜜の場合も)、煩悩の場合も、アーラヤ識-マナ識-意識の循環のメカニズムは基本的に同じです。
性質は、好循環と悪循環でまったく逆ですが。
このメカニズムを思い出していただくと、理屈と感情が一致しない理由がはっきりつかめます。
感情は湧いてくるものですが、どこからでしょう?
そうです、マナ識-アーラヤ識という深層から湧いてくるのです。
それは、意識上、ちょっと理屈でわかったくらいで、解消・浄化できるものではありません。
意識の表面でちょっとわかった程度の理屈では、感情はどうにもならないのです。
しかし、理屈嫌いの傾向の強い日本人にとって重要なことは、確かにちょっとわかった程度の理屈では感情は抑えられませんが、しっかりわかると相当程度感情は変えられるということです。
詳しいことは拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)をご覧いただきたいのですが、「怒り」というのは(も)毎日の生活ではとても重要なテーマの一つなので、次回、そのあたりについて少しだけお話ししたいと思います。
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