無慚と無愧は、善の心である慚と愧のちょうど逆の心です。
復習しておくと、慚は自ら振り返って反省する心、愧は他に照らして反省する心でした。
自我も含めすべては絶えずダイナミックに変化している存在ですが、マナ識は変わることのない実体としての自我があると思い込んでいます(我見)。
そのために、心理学用語でいう「アイデンティティ」というのはいったん出来上がってしまうときわめて変わりにくいのです。
出来上がったアイデンティティのパターンつまりパーソナリティが自分そのものだと思い、それを依りどころにし、頼り、誇りにし(我慢)、それに執着してしまいます(我愛)。
そういうマナ識にコントロールされた意識は、どうしても自分にこだわってしまう強い傾向を持っています。
こだわることにはもちろん、「自分はこういう人間だ」、「自分はこれでいい」、「自分を変える必要はない」、「自分を変えたくない」と思うことが含まれています。
つまり、人間は、事実としてよくてもよくなくても――「よい」には倫理的な善、社会的に適応している、幸福であるという3つの意味が含まれると思いますが――「自分はこれでいい」、「なぜ自分を変える必要があるんだ」と思いたくなる生き物だということです。
そのため、自分で自分の姿を振り返って、「今の自分のあり方や行動はよくない」と反省するのが難しいのです。
こちらから見ると、明らかに倫理的に悪い、あるいは社会的に不適応である、あるいは本人自身不幸であるというパーソナリティのパターンを持っている人が、それでも変わりたがらないというのは、よくある現象ですね。
特に不幸な自分のパターンにしがみついている人を見ると、不思議なような気もします。
それから、社会の常識やエチケットやモラルに照らして、「愧じるべき言動をしたな」と反省するのは、自分を否定することのように思えて、いい気持ちではありませんから、認めたくなくなるのです。
しかし、事実は自我もまた無常であり、変化するもので、しかも、いい方向にも悪い方向にも変化する可能性があります。
今までの自分の行動・カルマが今の自分を作っており、今からのカルマが次の自分を作っていきます。
よいカルマは新しいよりよい自分を、悪いカルマは新しいより悪い自分を作るのです。
「自分」というものが変化するものであることを自覚し、その変化の善し悪しをきめるのは自分のカルマだということに気づけば、反省しやすくなるでしょう。
これまでのカルマの集積としての自分がいろいろな意味で悪い(倫理的に悪、社会的に不適応、不幸)と自覚しても、「自分はダメだ」と実体的に決めつける必要はないのです。
自分も無常、ダメも無常ですから、変化しうるのです。
これまでがダメだったと自覚したら、これからダメでない方へと方向転換をし、変化すればいいし、できるのです。
反省は、いい方向へ転換・変化するためのスタートです。
反省できないと、自分のためにも他者のためにもならないよくない(悪、不適応、不幸な)生き方を続けるほかありません。
そういう意味で、無慚・無愧は、自分にとっても周りの人にとってもまちがいなく煩悩だと思います。
無慚・無愧という心の病の薬は、単純明快、慚・愧です。
慚愧・反省という薬は、時にはちょっと苦いこともありますが、確実にこれからの自分をよりよくできる、回復させてくれるのですから、飲んだほうが身のためですね。
念のため、後ろ向きに「ああしなければよかったのに」とただ後悔することと、いったん後ろを振り返ってからもう一度前向きになって「あれはよくなかった。ああいうことはやめよう。これからはこうしよう」と反省するのは全然別のことです。
反省は役に立つのでできるだけしましょう。後悔は役に立たないのでやめたほうがいいと思います。
「反省すれども、後悔せず」というのは、私のモットーの1つです。
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