随煩悩8:誑(おう)――だますこと

2006年04月18日 | メンタル・ヘルス

 人をだますことは倫理的に悪であり、詐欺になると犯罪であることは、誰でもわかっているでしょう。

 しかし、わかっていればやらないかというとそうではありません。

 詐欺をやる人間は、それが犯罪だとわかっていてやるのです。

 なぜ、犯罪だとわかっていてやるのでしょうか?

 ここまで学んできた方には、もう明快だと思いますが、念のため簡単にコメントしておきましょう。

 それは、詐欺をやってお金などを人からだましとったら自分が儲かる、得すると思うからですね。

 そこには、人と自分が分離しており、他人が損をしても自分は損でないどころか得をするのだという考えがあります。

 そこにはまず分別知・無明があり、自分の利益のためなら何でもしてしまいがちな我愛の心があり、そして自分のものをできるだけたくさん欲しいという貪りの心があります。

 特に現代人の多くは、死んだらおしまいで、地獄も極楽もありはしないと思っていますから、誰も見てなければ、ばれなければ、やったもの勝ちだと思っているようです。

 お年寄りの保険金や年金を狙った詐欺、家族の気持ちを利用したオレオレ詐欺など、昔の日本ではあまり(まったくではないにしても)考えられないタイプの犯罪が増えているのは、神話的仏教が信じられなくなったことが大きく影響しています。

 うまくだましてばれなければ、今生での報いはないし、死んだらおしまいだから来生での報いもない、と思い込んでいるのですね。

 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか?

 そうではありません。どんなにうまくやって隠しても、自分の心にはばれています。

 誰が知らなくても自分は知っているし、誰が見ていなくても自分の心の眼は見ています。

 そして何よりも、やったことの残存影響力つまりカルマは、自分の心の底つまりアーラヤ識に必ず溜まっていきます。ヘドロのように汚く重苦しくドロドロと。

 溜まったカルマは、魂・アーラヤ識を腐らせます。

 たとえ今は痛みが自覚されなくても、魂が腐るというのは、まさに病であり、そういう意味で煩悩であり、報いを受けているのですね。

 最近、詐欺罪を働いて、ばれても平然としているように見える人が、ちょいちょいテレビなどで報道されます。

 あれは、ほんとうに平然としているのか、平静を装っているのか、どちらでしょう?

 どちらであるにしても、居直ったり、居丈高になったり、つっぱったりして、心の痛みを無理やり抑圧しているのだ、と私は解釈しています。

 無理やり抑圧するというのは、余分な心のエネルギーを浪費して、まったく苦労な話です。

 同じ有限の人生なのだから、軽やかに爽やかに、心豊かに生きるほうが、はるかに得なのになあ、得をするつもりで最高に損な選択をしているよなあ、まったく愚かだなあ、と思ってしまいます。



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コメント (3)
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