随煩悩11:おごり高ぶり――にせものの過剰な自信

2006年04月21日 | メンタル・ヘルス
 自他が分離していると思うと自他の比較が起こります。

 比較した場合、もちろん自分のほうが上だと思いたいに決まっています。

 そういう比較して上だと思いたいという基本的な気持ち(慢)があると、日々実際にもそういう感情が起こります。

 それが随煩悩の1つ、「憍(きょう)」です。

 現代風に言えば「優越感」ですね。

 優越感が硬直すると「傲慢」になります。

 客観的な根拠もないのに優越感に浸っているのは「自惚れ」と言います。

 客観的根拠はあるけれども自分のことしか認めないのを「ナルシシズム」というのでしたね。

 そうしたにせものの過剰な自信は、状況によって崩れがちであること、実は心の奥に不安を秘めていること、中長期には人に嫌われていくこと、したがって揺らいでしまうこと、揺らいでしまうような自信は「本当の自信」とはいえないということ、などについては、かつてかなりていねいにお話ししたとおりです。

 しかし、「いい気になる」という言葉が的確に表現しているとおり、おごり高ぶっている最中は本人の意識上には確かに快感があるのですから――身に覚えがあります――人間はなかなか複雑で厄介です。

 煩悩が「煩悩」つまり煩わせ悩ませるものであるということは、当面の当人の意識のことだけを見るとなかなか納得できません。

 まわりの人との関係の中での、長い期間の、無意識の領域まで見た時の、本当の心の安らかさや満足という物差しで計った時初めて、ごく当たり前に見え、「それでいいじゃないか」とか「しかたないじゃないか」と思えていた人間の感情が、実は煩悩であり、心の病であることがはっきりするのですね。

 煩悩がやがて「死に到る病」である深刻な慢性病にも譬えられるものでありながら、長い歴史の中で、人類社会全体での治療の取り組みがなされてこなかったのには、そういう症状の自覚が出にくいという理由があったのだろう、と私は推測しています。

 しかし、もうそろそろ本格的に治療に取り組まないと、人類全体が末期症状を呈しつつありますから、手遅れになるのではないかと思います。

 手遅れになる前に、自覚して、みんなで治療に取り組んだほうがいいんじゃないでしょうか。


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コメント (2)
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