随煩悩4:覆(ふく)――ごまかし・隠蔽体質

2006年04月11日 | メンタル・ヘルス

 大学の授業が始まり、研究所の講座「自己実現の心理学」も始まり、途中のどこか空いた時間を見つけて、携帯から投稿しようと思っていましたが、結局時間がありませんでした。

 残念です!

 (記事検索の都合上、投稿日時を11日に訂正させていただきます。「ごまかし」をするつもりはないんですけどね。)


 ところで、さっきテレビを見ていたら、文化庁が高松塚古墳の壁画にできた2ヶ所の傷について、4年間も明日香村にさえ公表していなかったというニュースが報道されていました。

 そういうのを「隠蔽体質」というんですね。

 文化庁のそういう体質は、今に始まったことではないようです。

 他の公官庁はもちろんですが、日本人全体の貴重な文化財を預かって管理する公僕であるはずの文化庁のお役人――文化に関わる人ですから高い精神性を持っていて欲しいですよね――まで、こういう隠蔽体質が根強くあることに、半分驚き嘆き、半分「当然だな」と頷いてしまいました。

 なぜ、失敗や欠陥や犯罪を「隠蔽」するのでしょう?

 〈自分〉を守ろうとするからですね。

 正しかろうが正しくなかろうが、自己防衛をしたいがために自分の失敗や自分のところの製品の欠陥や自分(たち)の犯罪を隠蔽し、ごまかし通そうとするわけです。

 その場合の〈自分〉には、自分の立場、自分の地位、自分の名誉、自分の体裁、自分の収入、自分の既得権益などなどの自分の〈所有〉や〈属性〉も含まれています。

 それは、もちろん倫理としていけないことに決まっていますが、凡夫の性(さが)、凡夫の常、よくある話としてはよくわかります。

 〈自分〉と〈自分のもの〉を実体だと思い込み、それに執着するあまり、失わないために、あるいはもっと増やすために、隠れて悪いことでもやり、隠し続け、隠し通してごまかそうとしたくなるわけです。

 これは、「私はウソを申しません」と昔の政治家のようなことを言いたいのではありません。

 私も、ついつい失敗を隠したくなることはあります、マナ識があるので。

 なるべく、悪質なごまかしはしない、ウソはつかないようにする、というのがポリシーではありますが。

 神話的仏教を信じていた時代の日本人は、「隠れて悪いことをしても、どこかで神仏やお天道さまやご先祖さまが見ておられる」、「正直に生きなければ、死んでからいいところへ行けない」と思っていたのです。

 そういう信仰がほとんど失われた現代の日本人には、「ちょっとぐらい――実はちょっとではない――悪いことをしたって、バレなければ平気だ。陰でやればいい。隠しておけばいい」とどこかで思っている人が増えているようです(この傾向は、学生へのアンケートや聞き取りの調査からもはっきりしています)。

 でも、隠すと、良心が多少でもあれば、しくしくあるいはずきずきと痛みますし、ほとんどなくてもバレはしないかと不安ですし、バレっこないと思っていてもいつもバレないように余分に気を張っていなければならないし……心が煩わされ悩まされますね、煩悩ですから。

 もちろん、隠蔽、ごまかしは人に迷惑をかけます。そういう意味でも煩悩です。

 人に信頼され、愛され、自分で自分に誇りを持つことができ、胸を張って正々堂々と爽やかに生きたいのなら、ごまかし・隠蔽体質はなくしたほうがいいのは、あまりにも明らかです。

 ……が、〈自分〉と〈自分のもの〉の実体視と執着があるかぎりは、なかなか完全にそういう体質、心の働きはなくなりません。

 この煩悩を癒す薬は、「信(まごころ・誠実さ)」と「マナ識の浄化」です。

 もちろん私も含めて私たちみんな、この薬を持続的に服用する必要がありはしないでしょうか?



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コメント (4)
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