随煩悩6:嫉(しつ)――分離-比較-優劣-嫉妬の心

2006年04月14日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩というのは、病気に譬えるともっとも表面に現われてきた症状のようなものです。

 例えば、発熱とか痛みとかだるさとか腫れとか……。

 症状の背後には病気があります。

 例えば、風邪、感染症とか、糖尿、生活習慣病とか、ガンとか……。

 これが、意識上の根本煩悩に当たると言ってもいいかもしれません。

 さらに、病気の背後には、ウィルスとか生活の乱れや体質などなどがあります。

 これが、マナ識の根本煩悩でしょうか。

 比喩はあくまで比喩ですが。

 さて、今日のテーマ「嫉妬」は(も)現代の重大テーマの一つです。

 近現代のいわゆる先進国の多くは、自由主義・資本主義の国です。

 それは、近代的なばらばらコスモロジー(という分別知)に基づいた自由競争の社会です。

 そこでは、人は個人個人として分離しており、比較しあい競争しあう存在です。

 比較しあい競争しあっていると、当然、優劣が出てきます。

 というか、競争するということそのものが、比較して優劣を決めるということですね。

 そしてもちろん、そこではいつも優越していることがいいことです(「大きいことはいいことだ」)。

 しかし、みんなが競争しているのですから、みんなが優越することは不可能です。

 優越しているといえるのは、感覚的にいえば、一つの集団の中の10%くらいのものでしょう。

 例えば「できる子」というのは、40人クラスだったら、4,5番に入っている子ですね。

 10番以内なら「まあまあできる子」といった評価でしょう。

 ……あ、私はそういう比較・相対評価がいいと言っているのではありません。

 現代日本は、自由主義競争社会であり、社会のあらゆるところで徹底的に比較・相対評価がなされているという事実を述べているだけです。

 それに対して、私は、この授業全体を通して、一人一人の本質的な絶対評価をしたい、つまり「いのちの意味」を伝えたいと思っているのです。

 そういう意味でいうと、現代社会を容認しているのではなく、本質的な批判をしているわけです。

 さて、それはともかく、分離意識→比較・競争→優劣→少数の優越感を感じられる人と多くの劣等感を感じている人が発生する、という流れが必然的であることはおわかりいただけると思います。

 さて、多少であれ劣等感を感じる人は優越していると見える人に対して、どういう感情を抱くでしょうか?

 そうです、それが「嫉妬」なのです。

 いつの時代にも比較競争はあり、優劣もあり、嫉妬もあったのですが、現代の日本はそれが極端になっていると思われます。

 ばらばらコスモロジーに基づいた社会は、必然的に嫉妬という随煩悩を肥大化させます。

 そして嫉妬は、いうまでもなくとても嫌な苦しい感情ですね。

 社会システムそのものが優劣-嫉妬を煽るような本質を持っていますから、うっかりするとそれに巻き込まれて誰かに嫉妬し、その結果、自分が悩むことになってしまいます。

 そういう随煩悩から回復するための薬は、他者と自己との根源的なつながりと一体性をまず頭で理解する「知恵」です。

 つながって一つならば、比較する必要はない、どころか比較できないのです。

 だから、嫉妬する必要はない、どころか嫉妬はありえないのです。

 例えば一つの体の場合、あまりかっこうのよくない足がきれいな目に嫉妬する、なんてことは起こりませんね。

 もっと根本的に治療するためには、マナ識を浄化し、「平等性智(びょうどうしょうち)」という智慧に転換していく必要があるのですが、それはもう少し後でお話しすることになります。


 それから、「嫉妬」には、優劣に関する嫉妬だけではなく、もう一つ愛情に関する嫉妬というのがあります。

 これも大きなテーマなので、次回、少し触れようと思います。

 今日は、これから一つの学部の初授業に出かけますので、ここまでにしておきます。


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コメント (2)
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