禅の標語に「不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)」、覚りは文字・言葉にしない、できない、直接心から心に伝えられるものである、というのがあります。
そして禅には独特のわかりにくいレトリック・表現方法があります。
そのため、私も、かつて禅の修行を始めた頃、「覚りとは曰く言い難いもの」であると思っていました。
しかし唯識を学ぶと、覚りは確かに最終的には自分自身で体験するほかないものですが、ぎりぎりのところまでは言葉で表現-説明できるものであることがわかりました。
といっても、もちろん説明は説明であって、それそのものではありません。
いくら説明がわかっても、体験することの代わりにはならないのです。
それは、「健康とはこういう状態です」という説明がいくらわかっても健康になれるわけではないのと同じです。
しかし、説明がわかると何とか病気を治してそういう健康な状態になりたいという気持ちになります。
覚りの説明も同じように、煩悩という心の病気を治して究極の健康な心になりたいという気持ちを起こしてもらうための手立て・方便なのです。
というわけで、あくまでも説明なのですが、説明していきましょう。
アーラヤ識には、すべてのものをばらばらに見てしまうという生まれつきの傾向があり、また生まれてから言葉によって教え込まれた分別知がしっかりと溜まっています。
さらに、毎日の言葉を使って営まれる生活の体験がさらにまた分別知として集積されていきます。
それが、マナ識-意識-マナ識―アーラヤ識……と悪循環していきます。
ですから、それだけだと、人間は一生分別知の悪循環から解放されることはないでしょう。
しかし、ほんとうはすべてのものがつながっており、結局は1つであり、比較するものもないほど徹底的に1つなので空・ゼロという表現さえできるという、真理の言葉を聞いて学ぶと、それもしっかりと溜まっていきます。
さらにただ聞くだけではなく、自分自身で思い出し、よく考え、納得するという作業を繰り返していくと、そのカルマも種子となって溜まります。
それに加えて、言葉を超えて世界を体験する方法としての禅定を実践すると、その体験もまた覚りの種子としてアーラヤ識に溜まっていきます。
「熏習」です!
この熏習が、在庫総入れ替え的な段階にまで到達すると、鏡がものの姿をそのままに映し出すように、大宇宙の真理をそのままに映し出す完璧な鏡のような心・大円鏡智に変わるのでしたね。
宇宙と私の一体感が心の底まで徹底するのです。
鈴木大拙は、それを「Cosmic unconscious, 宇宙的無意識」と表現しています。
なんだか、とてつもなくすばらしいもののようですね。
この話を聞いた時、私は曰く言い難い「覚り」以上に、そういう覚りを得たいという強い憧れを感じたものですが、みなさんはいかがでしょう?
そして、アーラヤ識が大円鏡智・宇宙的無意識に大転換を遂げるとそれに対応してマナ識も平等性智に転換するのですが、長くなるので、その説明は次回にしたいと思います。
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