
「あげる」というと、私たちはすぐに物のことを考えます。
さらに現代のような貨幣経済の社会だと、物を買うことのできる「お金」を連想します。
実際、日本の仏教で「お布施」というと、お葬式や法事を執り行なってくれたお坊さんに信者が差し上げるお礼、特にお金のことをいいますね。
しかし、これはインドのもともとの大乗仏教の「布施」とはかなり違ったものになっています。
本来の布施は、前回お話したように、修行のためにするもので、ということはまず修行者・僧侶が行なうべきものです。
そして修行者が行なう布施は、3種類あり、物だけをあげるのではありません。
何よりもまず、真理の言葉・教えをあげる、伝えるというのが、菩薩が行なうべき布施の第一です。
ふつうの人・凡夫は、無明のために四苦八苦の苦しみをしています。
その苦しみから解放されるには、智慧・覚りを得なければなりません。
といっても、突然、八識が四智に変わり、究竟位の覚りを得るというわけにはいかないのでした。
まず縁起・空という真理の教えを聞いて、学ぶことから始まります。
苦しんでいる人をそういう学びの歩み、あるいは心のリハビリの第一歩に導き入れるには、ちゃんと言葉で説明をしてあげなければなりません。
そういう真理・法の言葉を伝えてあげることを、「法施(ほうせ)」と読んでいます。
常識的に物をあげることというのとは異なり、いろいろなかたちでの「説法」をすることこそ、菩薩がまず行なうべき布施なのです。
しかし、その人が例えば今大怪我で激痛で苦しんでいるとすると、インフォームドコンセントだのリハビリだのといっているわけにはいきません。
何はともあれ応急手当をしなければなりません。例えば止血、痛み止めの麻酔などなど。
それに似て、物質的な面で苦しんでいる人、例えば餓えている人に、難しい仏教の教えを説いても、その時のその人の救いにはなりません。
ですから、そういう場合は、まず食べ物など物質的な援助をするのです。
そういう布施を「財施(ざいせ)」と呼びます。
これも、状況によってぜひ必要なものです。
しかし、建前としては、まず法施があって、その補助として財施がある、といっていいかもしれません。
それから、補足的にいうと、日本仏教の「布施」は、僧侶がお葬式や法事をきっかけにして縁起の理法・つながりの大切さをちゃんと檀信徒の方にお伝えすることができれば、それは「法施」になります。
その法施への感謝の意味を込めて、檀信徒が僧侶にお金などを差し上げるのであれば、それは「財施」です。
そういう法施と財施が適切に循環しているのであれば、それは仏教の本筋からはずれてはいないと思います。
そういう意味で、日本のお坊さま方は、葬式・法事、その他あらゆる機会を捉えて、お説法する努力をしていただけるといいのではないでしょうか。
悪い意味で儀礼化・形骸化してしまい、わけのわからないお経を唱える葬儀と、それに対してわけがわからないにもかかわらず習慣として払わされる葬儀料という状態では、仏教としては堕落というほかありません。
あ、余計なお世話だったかもしれません。
それから、布施の最後、ある意味でいちばん大切なのは「無畏施(せむい)」です。
畏(おそ)れのない心、つまり安らぎを与えるということですね。
悩んだり、苦しんだりしておられる方の心が安らかになるお手伝いをすることは、仏教がもっとも重点的に行なうべき布施ではないか、と私は考えています。
真理の言葉を伝えるのも、必要な物をあげるのも、その結果として心が安らかになるのでなければ、あまり意味がありません。
心をもって生きている人間という生き物にとって、言葉も物ももちろんベースとして必要ですが、その上にさらに心の安らぎ・満足というものが必要です。
以上のように、物、言葉、心の3つの面すべてについて、私に少しでも余りがあれば足りない人にあげる努力、布施の実行によって、私たち自身の心が他者との一体性、さらにはコスモスとの一体性を少しずつ実感できるようになる、というのです。
ここで大切なのは、人のためというよりも、まず自分自身の心の健康回復のために行なうリハビリが布施なのだということです。
これがわかってから、私も「なぜ、私が損をしてまで人のためにしなければならないんだ」という疑問はまったくなくなりました。
布施は、自分のために人にやらせていただくトレーニングだったんですね。
だから、布施をさせていただいた方に「リハビリに付き合って下さって有難うございます」と感謝してもいいくらいです。
ともかく、無理のない範囲で、少しずつやっていきましょう。
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