コスモスがコスモスをコスモスにあげる:「布施(ふせ)」の話 1

2006年05月24日 | メンタル・ヘルス




 コスモスの中のすべてのものはつながっており一つですが、それぞれの区別できるかたちははっきりあるのでした。

 人間同士に関してもそうで、すべての人間はいちばん深いところでは一体とはいっても、それぞれは区別できる個々人という意味で別人です。

 区別できるという意味での個々人がいるということは、ありのままの世界の姿(如・実相)で、それ自体は妄想でもなければ、悪いことでもありません。

 それどころか、それぞれ別の人間であるからこそ、すばらしい出会いもできるわけです。

 コスモス全体が、ずるずるべったり、混沌状態の一体だったら、いわばどろどろとうごめいているだけで、感動的な、古くてすてきな言葉でいうと「邂逅(かいこう)」、この人に遇えてよかった、生れてきてよかったというふうな出会いの体験はできません。

 ところがまずいことに、人間は分別知によって他の人を見ます。

 そうすると、自分とはまったく分離した別人、自分には関係のない「他人」というふうに感じられたりします。

 もちろん、自分にとって直接的な関わりのある人は「関係者」と感じられたりもするのですが。

 しかし、私たちが仏教を通して世界のほんとうの姿を学ぶと、すべては縁起・つながり、そして究極は空・一如の世界だということが、頭では納得できます。

 確かに頭で納得はできても、なかなか実感は湧きません。

 どうしても「私は私、人は人」、「私のものは私のもの、人のものは人のもの」というふうに分離的に感じられてしまいます。

 「私と人はつながっている」、「コスモスという意味では私と人は一体だ」という気がしないのです。

 それは平均的な・ふつうの・平凡な人にとっては、当然なことです。

 そこで、岐れ路になるのは、ちょっと古いジョークですが「赤信号、みんなで渡ればこわくない」式に、「みんなそうじゃないか。どこが悪いんだ」と、そのままに居座る――前回の譬えでいえばベッドに寝転んでリハビリをサボる――か、「実感はないけど、考えてみると確かにそうだな。どうしたら、本当のことが実感できるようになるんだろう」と考えて、方法を教えてもらって実行するかどうかというところです。

 他の人と私が深いところでは一体であることを、頭でわかるだけでなく、ハートで感じ、胆に納めていくためのトレーニング、リハビリの最初のメニューが「布施(ふせ)」です。

 これは分別知的な常識からいうと、「私」の「もの」を「人」に「あげる」という意味です。

 しかし無分別智・一体性の智慧からいうと、「私」も「人」も「もの」もおなじ一つのコスモスの現われです。

 もの(者・物)は、究極のレベルでいえば、すべてコスモスのものであって、誰か特定の個人のものではないのです。

 (いやぁ、これはお話ししている私も改めて自分で驚いてしまうほどの、常識外れの話……しかしどうも真理だと思われます。)

 だから、「私の物を人にあげる」といっても、あげる者ももらう者もあげ-もらう物もみんな本当は空・コスモスなのです。

 「私が物を人にあげる」のは、コスモスがコスモスをコスモスにあげる、というか、コスモスのある部分がコスモスのある部分をコスモスのある部分に移すだけのことです。

 これを、私と人と物という3つの要素がみな空であることに基づいた布施という意味で「三輪空寂(さんりんくうじゃく)の施」と呼んでいます。

 高い所にある水が低い所に流れていって、同じ高さになるのは、水の自然です。

 それと同じように、コスモスのこちらに余っていて、そちらに足りなかったら、そちらのほうに物が移っていくのが、コスモス全体の自然でもあるというのです。

 ところが私たちは、そんなことを言われても、実感もなければ、実行もできません。

 また前回の譬えでいうと、ベッドで寝たきりのようなものです。

 しかし、「金メダルを目指したい」、「近くのお店に買い物に行けるくらいには元気になりたい」と思うのなら、まず最初はせめてベッドに起き上がる練習程度でもいいから、とにかく練習を始めましょう、というわけです。

 ここで仏教内外の多くの人が間違いがちだったのは、仏教を学びはじめたならすぐに、大変な献身、自己犠牲、布施をしなければならない、できるはずだ、と考えてしまうことです。

 しかし、それは、寝たきりの人を突然炎天下のマラソンに出場させるようなもので、そんな無理をさせると病人は倒れてしまう、どころか死んでしまうかもしれません。

 無理なリハビリはリハビリにならないどころか、状態を悪化させますから、それは「治療」とは呼ばないのですね。

 リハビリは、ちゃんと回復の程度に合ったメニューでなければなりません。

 回復の程度に合ったメニューを、ちゃんと実行することが必要です。

 もちろん、治りたいのなら、リハビリをサボってはいけないのです(←念のため、こういうのは論理療法では「絶対視され、硬直したmust」とは区別されていて、「条件付のmust」と呼ばれ、こういう「ねばならない」は健全な社会生活には必要なものとして認められています)。

 私も、金メダル級の「布施」はできませんし、やりません。現状の自分の回復状態に合っていないと思うからです。

 でも、自分にできる範囲+αの「布施」的なことは、なるべくするように努力しています。

 体を壊してしまわないように注意しながら、でも少しずつ難易度を上げていきたいと思っているという段階にあります。

 六波羅蜜の話――というかそもそも仏教の話――をすると、時々、私のことを修習位以上究竟位に限りなく近い菩薩なのではないかと善意の誤解をする方や、「お前が菩薩ならおれにこうしてくれるべきだ」と建前を振りかざして勝手な要求をする人がいたりするので、誤解なきよう、ちょっと現状報告をさせていただきました。

 この授業は、まだまだ未熟、修行中の菩薩が、これから修行を始めるかもしれない菩薩候補生、後輩のみなさんに、ちょっと先輩として、ちょっとアドヴァイスしている、といったふうなものだと思って下さい。

 お役に立ちそうなら、さらに付き合ってください。



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コメント (2)
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