ススキ原で思ったこと

2006年10月23日 | 生きる意味



                    箱根仙石原のススキ



 土日、箱根仙石原でサングラハのミーティングを行ないました。

 終わって、参加者のみなさんと有名なススキ原に行きました。

 残念ながらまだ穂ぜんぶが真っ白になっておらず、雨模様だったので、ススキ原全体が純銀に輝いている様子までは見せてあげられませんでしたが、それでもみごとに広いススキの原に「すごい!」と歓声が上がりました。

 真っ白なススキに、今読んでいる『摩訶般若波羅蜜経』の「幻学品(げんがくぼん)第十一」のスブーティ(須菩提)と釈尊の問答を思い出しました。



 「スブーティ(須菩提)よ、おまえはどう思うか、布施という波羅蜜と幻と異なりがあるだろうか?……」

 「いいえ、そうは思いません、世尊よ。なぜかというと、色(しき、物質的現象)は幻と異ならず、幻は色と異ならず、色はすなわち幻であり、幻はすなわち色だからです。……それから、この上なく等しいもののない覚りは幻と異ならず、幻はこの上なく等しいもののない覚りとことならず、この上なく等しいもののない覚りはすなわち幻であり、幻はすなわちこの上なく等しいもののない覚りだからです。」……

 スブーティが仏陀に申し上げるには、「世尊よ、初めて大乗に志した求道者(新発大乗意菩薩、しんぽつだいじょういぼさつ)は、般若波羅蜜が説かれるのを聞いて、恐怖はないでしょうか?」と。

 仏陀がスブーティに告げられるには、「もし初めて大乗に志す求道者は、般若波羅蜜について巧みな手だて(方便)がなく、またよい指導者(善知識、ぜんちしき)を得なければ、その求道者は、あるいは驚いたり、あるいはおののいたり、あるいは恐れたりすることだろう」と。


 「すべてが空であり幻のようなものである」と聞くと、初心者は下手をすると、すべては虚しいのかと不安になったり、恐れたり、ニヒリズムに陥ったりしかねません。

 「すべてが、さまざまなものとのつながりの中である時間だけ現われて消える現象だ」ということと、だからこそ生きることには意味がある、あるいは人生は意味体験をするチャンスであるということは、いい指導者に出会うことができ、巧みな方法で教えてもらわなければ、なかなか理解できないのです。

 それどころか、勝手に「消える」という部分だけ強調して聞いてしまい、恐ろしくなったり、虚しくなったりしてしまいがちです。

 しかし幸いなことにいい指導者の上手な説き方に出会うことができると、例えば、真っ白なススキがやがて風に吹かれてすべてどこかに飛んでいってしまい、後には枯れた葉が残り、それもまた朽ちていき、やがて野焼きで焼かれて灰になっていくことだけでなく、ススキがいま・ここで純銀のように光輝いていること、そして飛び散った白い毛は新しいいのちの種を運んでいることに目を向けることができるようになるでしょう。

 「花の咲かない枯れススキ」に見えるものは、実は新しいいのちの種子の群であり、やがて新しい場所で新しいいのちの姿に生まれ変わります。

 このように生から死へと、そしてまた死から生へと、幻のように変化すること、ダイナミックに運動することこそ自然の本質であり、それが空ということなのです。1) 2) 3) 4) 5) 6)

 こうして、幻のように、万華鏡のように、さまざまに変化していく自然の姿を、親しい人たちと一緒に爽やかに楽しめる人生の一日を与えられたのはとても有難いことだ、と思ったことでした。



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コメント (3)
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