「宗教は愛とか慈悲ということを教えているはずなのに、どうして宗教同士で戦争をするんでしょう?」
宗教についての授業や講演をしていると、非常にしばしば出される質問です。
先日の授業の後、学生に書いてもらった授業への感想・質問の文章にも、おなじような質問がありました。
思わず、「テキストの24ページ以下の『〈宗教〉には未来はない』のところを読んで下さい。テキストは買ってありますか?」とコメントを書きたくなって、今年は『コスモロジーの創造』(法蔵館)をテキストにしていなかったことを思い出しました。
なので、ポイントを引用しておくことにします。
「まず明確にしておくと、未来がないという〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での『信仰』と『服従』を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。
これには……私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」ではない)。……そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。」
「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。 自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。
事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。
建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。
しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。」
「その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判の言葉は、古典的でいまさらのようだが、依然として日本の市民――特に七〇年代以後の若い世代――の大多数の常識にはなっていない、どころかほとんど知られてもいないらしいから、改めて引用しておきたい。……
……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(邦訳下、122頁)
……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、126~127頁)
右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。
もちろん、悲しいことながら、ここ当分人類は争い続けるだろうし、争い続けながらも生き延びている間は、建て前として平和を叫びながら実際には平和をもたらせない〈宗教〉も生き延びるだろうし、そういう意味でなら、まだしばらく宗教に未来はある(それどころか、現象的には、一時、宗教紛争、宗教戦争の元になるような宗教の勢力はかえって増大するかもしれない)。
しかし、繰り返すが、人類規模の平和な未来の実現ということからいえば、もはや宗教に有効・妥当性はない、と思う。」
〈コスモロジー〉というキータームを使って、言い換えてみましょう。
他の生物のように生まれつきの本能によって外界を知覚するのではなく、言葉によって外界を認識するようになった人間という生き物は、外界=世界についての言葉のまとまり、つまりコスモロジーなしには生きられません。
過去の人類が生み出してきた呪術的・神話的宗教は、特定の人間集団が生き延びるためのコスモロジーでした。
同じ呪術・神話を信じることによって、集団の合意が形成され、共通の目標に向かって協力することができたのです。
当然、信じる者は集団のメンバーであり、信じない者は集団のメンバーではないのです。
コスモロジーは、合意を形成し共通の目標に向かって協力することで集団が生き延びるためのものですから、これを信じるか信じないかは集団にとっては死活問題でした。
まだ信じていないよそ者は怪しく感じられ、教えても信じようとしないよそ者は敵と見なされます。
特定の集団にとっては合意-協力、つまり愛し合う根拠であるコスモロジー=宗教は、他の集団に対しては無視し、敵意を抱き、敵対する根拠にもなりうる潜在的可能性をいつも持っていますし、状況次第ではいつでも実際に現実化してきました。
宗教の説く「愛」は、仲間に対してのみ有効で、外部に対しては敵意を生み出しかねないものだったのです。
それは、とても残念ながら、「あなたの敵を愛しなさい」と教祖が語っているはずのキリスト教でも、歴史的実態としてはかなりの程度、そうでした(です)。
そういうわけで私は、「宗教同士なのに、どうして戦争するんですか?」という問いに対しては、「宗教同士だから、戦争するんです」と答えることにしています。
ただし、それは呪術的・神話的宗教のことで、理性・哲学的宗教や霊性的宗教は、つながりコスモロジーという点で現代科学のコスモロジーとも調和し、人間同士の永続する平和を実現するための合意ラインになりうる、というのが私の考えです。
詳しいことは、よかったら、このブログの過去の記事や、テキスト……に今年は指定しなかった『コスモロジーの創造』を読んでみてください。
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