今日はクリスマス・イヴです。
クリスマス(Christmas)は、いうまでもなく、元々はキリスト(Christ)の誕生を祝う日で、イヴはその前夜祭です。
日本では、クリスマス当日よりもクリスマス・イヴのほうが年中行事の1つとしてすっかり定着し、家族団らんか恋人と過ごすロマンティックな時というふうになっています。
それはそれで楽しい行事―特に子どもたちと恋人たちにとって―ですから、あまり目くじらを立てるつもりはありませんが、ちょっとばかり……そうとうズレてしまっているな、とやや残念な気もします。
イエスという歴史的な人間が神の子と信じられるようになったのには、いろいろな理由があり、その中には原理主義的で問題のある面と普遍的な意味のある面が混在していると私は捉えています。
どんな宗教であれ、自己絶対化は敵を作り、争いを引き起こします。
しかしほとんどの宗教には、「愛」や「慈悲」を育むという面もあります。
現代の私たちが、ただ楽しい行事としてだけではなく、もっと深い意味のある、もっとすてきなものとしてクリスマスを迎えるには、それが本当の愛と平和について心新たに考え、感じ、追求する季節であることを理解しておいたほうがいい、と思うのです。
私たちは、「自分を超えた大いなるなにものか」によって生まれたことはまちがいありません。
それを、「神」と呼ぶか「仏」と呼ぶか「大自然」と呼ぶか、その名前にこだわる必要はないと思います。
私は、現代人にいちばん受け容れやすいと思うので「コスモス・大自然」という言い方をもっともよく使っていますが、それらの言葉は私にとってすべて同義語です。
新約聖書の福音書(4つありますが)から読み取ることのできるイエスという人は、私たちを超えた大いなるなにものかの理・真理・秩序・法・法則・道・条理つまりロゴスをもっとも深く体現した人(の一人)であった、と私は考えています。
コスモスの進化の方向にもっともよく沿って生き死にした、比類なく美しい人であったと感じます。
そういう意味で確かにイエスの誕生は「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」(ヨハネ福音書1・9)とも、「そして言(ロゴス)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(同1・14)とも表現できるような、すばらしい出来事であったというほかありません。
もはやキリスト教唯一絶対主義という意味でのクリスチャンではありませんが、コスモスのロゴスを体現したという意味ではやはりキリスト(救世主、世を救う人)とも呼びうる人イエスの誕生を、私も祝いたいと思います。
イエスという人のイメージに出会って以来、もちろんそんなふうになれるわけはないのですが、少しでも真似をしたいと思い続けてきました。
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスに捕らえられているからである。」(ピリピ人への手紙2・12)
私は、「なんとかああいうふうになれたらいいなあ」と憧れ続けているという大イエス・ファンなのです(そういうのは「クリスチャン」ではなく「イエスチャン」だと揶揄する人もいますが、私にはどちらでもいいことです)。
そういう想いを共有できる仲間たちと、今日はこれからクリスマス(イヴ)会で集まります。
その中には、お寺のご住職もおられます。これは、宗教間の対立が大きな問題になっている時代にあって、とても意味深いことだと思っています。
間もなく出かけます。それに先立って、ブログ読者のみなさんには厳密には1日早いのですが、クリスマス・メッセージを贈りたいと思いました(実をいうと、これは集会でのメッセージの原稿でもあるのですが)。
みなさん、すてきなクリスマスを!
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