吉野弘(1926~ )さんも、好きな詩人の一人です(手ごろな詩集に『吉野弘詩集』『続・吉野弘詩集』『続続・吉野弘詩集』思潮社がある)。
次の詩は、コスモス・セラピーのワークショップで時々朗読させていただくことがあります。
I was born
確か英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げにゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに 連想しそれがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時僕は〈生まれる〉ということがまさしく〈受身〉である訳をふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was born なんだね――父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
―― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に遇ぎなかったのだから。
父は無言で暫く歩いた後 思いがけない語をした。――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三目で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら或日、これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると、その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――
人間はすべて「生まれた」のであって、「自分で自分を生んだ」人はだれもいません。
それは、人間、という抽象的・一般的な言い方をするより、具体的な、ほかならぬこの私の出発点・原点です。
出発点・原点を忘れていながら、「自分のことは自分がいちばんわかっている」などと思っている人がたくさんいます(かくいう私もかつてはそうところがありました)。
私ではない人が私を生んでくれたことが私のいのちの原点です。
そして、この詩が悲しみにとともに語ってくれているように、もちろんもっとも直接的にはお母さんなのですが、お父さんもいなければ生まれません。
さらに、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも、ひいお祖母ちゃんもひいお祖父ちゃんも……数え切れないほどのご先祖さまがいなければ、私は今・ここに生きていることはできない、のでしたね。
I was born に気づくことは、ほんとうの自分を知ることの始まりだと思うのです。
吉野さんの詩には、もっともっとたくさん好きなものがあります。また、いつかご紹介したいと思っています。
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