環境問題と心の成長 3

2009年07月02日 | 持続可能な社会

   環境問題と心の成長 3


 成長の限界

 前回、「大量生産―大量消費によって豊かな社会を形成するという近代文明のシステムは、実は始めから入口のところで自然資源の有限性、出口のところで自然の浄化能力の有限性という限界を抱えていた」と書きました。

 言うまでもありませんが、これは私の独自あるいは個人的な意見ではありません。よく知られたところでは、すでに1972年、『成長の限界――「人類の危機」レポート』(邦訳はダイヤモンド社)で広く世界に問題提起されています。この本は、財界人、学者、政治家などによる組織「ローマ・クラブ」によって公刊されたものです。

 また、スウェーデンではさらに早く60年代前半から環境問題が深刻であるという気づきは始まっており、68年に政府が国連に環境会議の提案を行ない、72年には首都ストックホルムで第1回国連環境会議が開催されています(しかし、なぜか日本ではこうしたことはよく知られておらず、私も残念ながら最近まで知りませんでした)。

 私は、出版されて四年も経った七六年にようやく『成長の限界』二十八版を買って読み、ショックを受けました。

 そういう意味ではそれほど気づきが早かったほうではありません。

 しかしそれ以来、環境問題は私にとって最重要の思想的課題の1つになっています。

 とはいえ読んだ当時、きわめてシンプルに表現すると、「個々の人間の欲望に限りがないとしたら、社会全体も経済的な成長の限界を認めて抑制することはできないだろう。人間の心の底からの価値観が変わらないかぎり、環境問題は解決しない」と考えました。

 そこで、直接に個々の具体的な環境問題に取り組むというより、どうしたら人間の心がエゴイスティックな欲望――仏教的にいえば「貪」――から自由になりうるかという根本的な問題の探究―解明に向かったのです。

 (現段階で達している私の認識に関心を持っていただける方は、『持続可能な社会の条件』〔サングラハ教育・心理研究所パンフレット、本ブログにもパンフレットの原型を掲載してあります〕をご参照ください。言うまでもありませんが、本連載では、その繰り返しにとどまらず、さらに最新のデータや考察を加えていきます)。

 『成長の限界』に話をもどすと、序論で「われわれの結論はつぎのとおりである」という一節の後に3つのポイントが記されていました。

 環境に関心があり『成長の限界』の名前は知っていても、実際には読んだことがないという方が意外に多く、しかしとても重要なポイントなので、長くなりますが、引用・紹介をさせていただきます。

 ⑴ 世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の成長率が不変のまま続くなら、来るべき一〇〇年以内に地球の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の、制御不能な減少であろう。

 ⑵ こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。
 
 ⑶ もし世界中の人々が第1の結末ではなくて第2の結末にいたるために努力することを決意するならば、その達成のために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。

 『成長の限界』が出版され第1回国連環境会議が行なわれた1972年から数えるとすでに35年が過ぎているわけですが、こうした危機の現状と「生態学的(ルビ:エコロジカル)に持続可能な社会」の形成の必要性については、第1回の国連環境会議以来重ねられてきた環境に関する国際会議の公式見解――いわば「建前」――としては、かなりの範囲まで共通認識になりつつあります。

 しかし残念なことに、人類社会全体――の実際の行動に表現された「本音」――としては、危機感も不十分であり、その結果、第2の結末に到るための努力はまったくなされていないわけではありませんが、これまたきわめて不十分だと思われます。

 本格的に実効性があるという意味で「本音」と評価できる行動の開始は、スウェーデンなどの北欧の国々などの例外を別とすれば、まったく遅れていると思われます。


 政府(本音)と環境省(建前)のズレ

 環境問題に関する日本の「建前」を端的に示しているのは、環境庁が省に格上げされる前、平成十二年に出された「環境基本計画」の前文の次のような個所でしょう。

 「第2の環境の危機は、産業公害に象徴される第一の環境の危機と同様に、二〇世紀の人間社会に福祉と成長をもたらした大量生産、大量消費、大量廃棄を前提とした生産と消費の構造に根ざしています。……

 第2の危機は、私たちの社会のあり方そのものを変えない限り解決できない……

 国際社会は、1992年にリオ・デ・ジャネイロで地球サミット(略)を開催し、「持続可能な開発」を国際的な合意とし……わが国の「環境基本法」の制定……これにより、わが国は、持続可能な社会の構築に向けて大きく一歩を踏み出した……

 地球という閉鎖された系の中において無限ということはありません。

 二一世紀を迎えるにあたって、私たちの最重要課題は、地球という枠組みの中において、人類の叡智を結集しながら、環境と社会の健全な関係を築き上げ、人類の持続可能な発展の基盤を整え、将来世代にこれを継承していくことです。」

 続いて環境省になって始めて出された『平成十三年版 環境白書』(四月小泉内閣の成立後5月付けで公刊)掲載の図「問題群としての地球環境問題」では、誤解の余地がないくらい明快に原因―結果の図解がなされています。





 さらに連載のために読み直して改めて驚いたのは、「環境白書の刊行に当って」には、環境大臣名(当時は川口順子氏)でこう書かれていたことです。

 「このような環境問題の原因は、私たちの営む社会経済活動に根ざしたものです。……社会経済のあり方を改めていくことが必要です。」(赤字は筆者)

 これらは、国の機関である環境庁・環境省の公文書ですから、環境に関する国の公式見解だと理解するほかありません。

 文字面だけを追っているとまるで『成長の限界 日本版』です。

 つまり、大量生産・大量消費・大量廃棄をベースにした近代的な社会経済のあり方は限界に来ていることを、政府もはっきり認めているわけです。

 この作文とでも言いたくなるような文章の「建前」は、私も全面的に支持したいくらいです。

 しかしその後の日本政府の「本音」としての社会経済政策は、今日に到るまでどこまでも近代的な、新自由主義経済学をベースにした市場経済の活性化による「景気の回復」「経済成長」を目指し続けてきた・いるのではないでしょうか。

 平成十三年成立の第1次小泉内閣(経済財政担大臣は新自由主義経済学の旗手ともいうべき竹中平蔵氏)から最近の安倍内閣まで、そしてその後の自民党総裁候補も、相変わらず「持続可能な経済成長」と言っています。

 これは、「持続可能」という言葉は使っていても「エコロジカルに持続可能な発展」とは似て非なるコンセプトです。

 そういう意味では、日本の政策決定に関わる人々の「本音」としての危機認識――とそれに必然的に伴うはずの適切で有効な対応――は35年も遅れていると言わざるをえません。

 1997年(これももう10年も前です)、日本・京都で「温暖化防止京都会議」(通称)が行なわれ、日本がいちおうリードして、「京都議定書」が議決されました。

 その際の二酸化炭素の削減に関する日本の数値目標は、2008年から2012年までの間に対90年比6パーセント削減でした。

 しかし実際には、最近の報告によれば約8パーセントの増加になっています。

 この事実一つ取っても(他にもたくさん事例はありますが)、建前と本音のズレが端的に現われていると思われます。

 それに対し、スウェーデンは対90年比4パーセントの増加が認められたにもかかわらず、自ら4パーセントの削減を課し、すでに2002年の時点でも2パーセントの削減を達成し、許容されたプラス4パーセントと併せると6パーセントも削減目標を超過しているそうです。

 これはみごとなまでの「建前と本音の一致」というべきでしょう。

 さて、そこで建前と本音がズレるか(使い分けるか)、建前と本音が一致するか、どちらになるか・するかを最終的に決めるのは政策決定者とそれを支持する国民の心のあり方・思想のあり方だ、と私は考えています。




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コメント (2)
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