環境問題と心の成長 5
近代の自由とばらばらコスモロジー
前号で述べたような主客分離と分析という方法に基づく理性によって描き出された近代の世界観・価値観を、私は宗教学や民族学の「コスモロジー」という用語を借りてわかりやすく「ばらばらコスモロジー」と呼んでいます。
ばらばらコスモロジー的な見方で社会を捉えると、当然、社会はばらばらの個人という部分が集まって全体をなしていると見られます。
そして社会ではなくそのばらばらの個々人こそ理性の担い手であるわけですから、人間の価値・尊厳は個々人にあると考えられるようになります。
そこから必然的に生まれてきたのが、近代の個人主義的なヒューマニズムだと考えられます。
さらに、そこから個人の自由な意思決定、信教・思想の自由、政治活動の自由・自由意思での合意に基づいた結社の自由、個人的所有の自由、経済活動の自由・自由な個人の合意に基づいた出資によって私的な利益を追求する経済組織(株式会社など)の設立の自由などなどが「基本的人権」であると考えられるようになります。
これらは、「自由」というきわめて大切な人権の主張ですから、どう考えても正しいように見えますし、前回も述べたように中世・封建的と呼ばれるような不自由に対して進歩であることは確かです。
しかし、その自由がばらばらコスモロジーに基づく自由だったところに、近代のマイナス面が生まれる最大の(唯一ではないが)理由があるのではないか、と私は考えています。
近代のマイナス面①――植民地化
中世から近代への過渡期としてのいわゆる近世、ヨーロッパでは、理性・科学・技術の発達と対応・並行して商業・産業が発展してきます。
航海術の発達と地球が丸いのではないかという科学的推測と商業的な意欲があいまって「大航海時代」が始まります。
ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼランなどの大航海に始まって、ヨーロッパ各国による、アジア、アフリカ、アメリカ大陸などの植民地化が進められていったのです。
これは、西洋中心主義の「世界史」では、さも希望と冒険に満ちた発展の時代のように語られますが、アジア、アフリカ、ネイティヴ・アメリカの側から見れば、明らかにほとんど一方的に「侵略」され続けた時代です。
それがある程度平和的な「貿易」であった場合でも不平等な貿易であり、きわめて多数の国々が圧倒的に優勢な軍事技術・軍事力によって強制的に占領・統治やそれに近い状況に追いやられたということは、改めて記憶・確認しておく必要があるでしょう。
近代ヨーロッパの自由は、自由といっても人類全体の自由ではなく、まず何よりもヨーロッパ人の自由だったのです。
日本人は明治以降、文明開化=西欧化し「欧米列強に伍す」こと、「追いつき追い越せ」を目指して努力し、第二次大戦の敗戦にもかかわらず、戦後、さらなる欧米化特にアメリカ化を遂げ、経済の面で「追いつき追い越せ」をかなりのレベルまで実現し、欧米で準白人扱いをされるに到っているという事情もあって、日本の教科書的な「世界史」観は気づいてみると驚くほど西洋中心主義的です。
そのため、西洋の近代もほとんどプラスの面ばかりが語られて、アジア・アフリカ・アメリカ世界の植民地化という暗黒面の歴史には十分な光が当てられていないように見えます。
念のために言っておくと、私は政治・思想的に、いわゆる右でも左でもありません。
しかしできるだけ公平に見て、どう考えてもアジア・アフリカ・アメリカ世界の側からすれば近世から近代という時代は、被植民地化というきわめて大きなマイナス面のある時代だった、と評価せざるを得ないと思うのです。
そういう植民地化の背後にあるのは、西洋(文明)と西洋以外(未開)を分離したものと見なし、西洋以外を利用の対象として見るという「ばらばらコスモロジー」的な思想だ、と私は捉えています。
自他を分離して自利・私利を追求するために他を抑圧・支配・搾取するという傾向は、歴史が始まって以来洋の東西を問わず人間(文明人)のやってきた業(カルマ)で、近代に始まったことではありません。
そのもっとも深い源泉は、仏教的視点から言えば、煩悩すなわち分別知と渇愛・貪りにあると考えられます。
しかし、近代的なばらばらコスモロジーの発達によって、他と分離した私‐私たち‐我が社‐我が国だけが繁栄すれば、他はどうなってもいい、というよりそのために他(民族、国)を「市場」と自然資源の「産地」として利用しようとする傾向もますます肥大したといっていいのではないでしょうか。
それは、例えばオランダやイギリスの「東インド会社」などの行状を見れば明らかであるように思えます。
近代のマイナス面②――植民地獲得競争から戦争へ
科学が発達しその結果技術が発達し、さらにその結果産業がますます発達して経済活動が発達・活性化すると、そこで作り出される商品=製品の原料である自然資源がますます必要になり、作り出された製品=商品の市場がますます必要になってきます。
そこで起こったのが、富裕な産業家市民・資本家の要請・圧力を背景にした近世・近代国家の植民地獲得競争だと考えられます。
植民地獲得競争は必然的に、植民地化する側の国とされる側の国・民族の対立、植民地化を進める国同士の対立を生み出しました。
そして、その対立はしばしば単なる競争や対立を超えて戦争にまで到ったのです。
近代の技術の発達は軍事技術の発達をもたらしました。
発達した軍事技術による戦争は、それ以前の戦争とは規模も悲惨さも比較にならないほど拡大していきました。
近代化がもっとも進んだつい先の世紀・二十世紀、人類は――といっても欧米が主体ですが――世界史史上最大規模と評される戦争、すなわち第一次、第二次世界大戦を行なったのです。これは、戦争のグローバリゼーションといってもいいでしょう。
そして、戦争の大規模化と軍事技術の発達は、究極の兵器ともいうべき核兵器を生み出し、広島・長崎で実際に使われ、その後、幸いにして使われてはいませんが、ますます発達し生産‐保有され、とうとう人類(先進国)は地球全土を何十回焼け野原にしてもまだ余るといわれるほど大量の核兵器を保有するに到っています。
そして、それにまだ懲りず生物学兵器などの新しい兵器も開発しているようです。
戦争と軍事技術の極限的な拡大・発達は、近代の決定的なマイナス面の一つです。
近代のマイナス面③環境破壊
そして、この連載のテーマである「環境問題」こそ、もう一つの近代の決定的マイナス面です。
連載の2回目に指摘したように、いくつもの古代文明が環境を破壊して自滅していますから、環境破壊は戦争同様、近代になって初めて起こったことではありません。
しかし、経済のグローバル化と対応・並行して環境破壊もグローバル化し、「地球環境問題」というかたちの極限的な危機に到ったのが近代であるという意味で、近代のマイナス面というほかないでしょう。
近代のばらばらコスモロジー的視点で見ると、自然は人間とは分離して向こうにある科学の「研究対象」であり、さらに研究して仕組みが分かると、科学技術によって人間の都合に合わせて組み換え利用し利益をあげることのできる「自然資源」としか見えなくなります。
そうなれば、人間の経済‐産業の限りない発展・成長のために無制限に利用していけない理由はなくなってしまいます。
それに対して、近代以前の人間は、多かれ少なかれ自然に対する畏怖・畏敬の念を持っていたと考えられます。
また、とりわけアジア、アフリカ、ネイティヴ・アメリカ世界では、自然は神のような存在であり、かつ人間と切っても切れないつながりがあると感じられていました。
日本の古神道的な感覚でも、山や川、森や巨木や巨岩などは「神」として崇められてきたのです。
だからといって、近代西欧以外でまったく環境破壊がなされなかったわけではありません。
しかし、そこに憚りやためらいや畏れといった強い歯止めもあったのではないでしょうか。
科学‐技術の未発達、産業の未発達とも相まって、環境破壊は一定限度に留まっていたのです。
近代西洋の科学、政治、経済などの分野の指導的人々の心の中から、自然と人間との本質的なつながりさらには一体性が見失われた時、自然を資源、つまり利用の対象としてのみ捉え、憚りなく大量使用‐大量浪費することも、使い終わって自分に用がなくなると大量廃棄することも可能になったのだと考えられます。
本連載のテーマに即していうと、「近代的な心のあり方が近・現代の極限的な環境破壊をもたらしている。したがって心のあり方が変わらなければ、環境問題を含めた近代の問題・マイナス面の根本的解決はありえない」と私は考えているのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。
続けて、ご一緒に考えていきましょう。
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