環境問題と心の成長 6
近代のマイナス面④ニヒリズム・エゴイズム・快楽主義
前回述べた3つの面に加えて、近代のマイナス面には、特に心にかかわる根本的なマイナス面がもう1つある、と私は考えています。
それは、きわめて多数の近現代人の心に蔓延しているニヒリズム・エゴイズム・快楽主義です。
前回までのような社会の価値観の問題ならともかく、そうした個人の心の問題と環境問題にどういう関係があるのか、まだ不審に思われている方もあるかもしれません。
しかし、これも非常に重要な問題だと私は考えていますので、今回だけでなく、この後何回か続けておわかりいただけるようにお話ししていきたいと思います。
空しい自分のことで精一杯
大まかに言えば、「人間が生きていることには絶対の意味はなく、またどう生きるべきかという倫理にも絶対の根拠はない」といった考え方を「ニヒリズム」と呼びます。
そして、近代の科学合理主義―ばらばらコスモロジーを徹底すると、必然的にニヒリズムという結論に到る、と私は捉えています。
それに関していつも思い出すエピソードがあります。
7年ほど前、私がある大学に教えに行きはじめた年、前期の授業が始まって間もなくのことでした。
授業後、1人の女子学生が質問に来ました。
彼女は真剣な面持ちでこう言いました。
「先生、私は考えれば考えるほど空しくなって死にたくなるんです。それで友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるな』と言われました。やっぱり考えないほうがいいんでしょうか」と。
それに対し私は、「きみもぼくも含めて戦後教育を受けてきた人間は、教えられたことを元にして自分とか人間というものを深く考えていけばいくほど、空しくなって死にたくなるようなことを教えられてきたんだよ。これからは、考えれば考えるほど死にたくなくなることを教えるから、頑張って前期末まで授業に出ておいで」と答えました。
そして、やや心配ではあったのですが、毎週熱心に授業に出てきていたので、特に個人的に話すことはしないで静観し、前期末になって授業後呼び止め、
「どうまだ死にたい?」と聞いたところ、
「だいぶ死にたくなくなりました」とのことでした。
そして、年度末にもう一度たずねたところ、
「教えていただいたような考え方をしたら、生きていけると思うので、そういうふうに考えていこうと思います」と答えてくれました。
科学合理主義つまり近代のばらばらコスモロジーを元にした戦後教育を受けると、うまくいくと個々人の人権を尊重し、社会の進歩・発展を信じ、そこに希望を感じながら生きることのできる元気なヒューマニスト・人間主義者になります。
つまり近代のプラス面を受け継ぐのです。
そして熱心なヒューマニストが、環境問題やエコロジーについてしっかりと学習したら、必然的に熱心なエコロジスト・環境保護主義者になるでしょう。
環境・エコシステムは、人間を含むすべての生き物が生きていくための基盤です。
真剣に人間の生存やまして発展を願うならば、必ず環境の保全、エコシステムを維持することを真剣に追求せざるをえないからです。
しかし、私の教えている学生の範囲で見るかぎり、若者たちは全体としては元気なヒューマニストに育っていないようです。
それどころか、戦後教育がうまくいかなかった場合、右の学生のケースのような問題――考えれば考えるほど死にたくなる――が起こるのです。
自分自身が死にたくなるくらい空しいのですから、若者たちがよく言う言葉を使うと、「自分のことでいっぱいいっぱい」です。
元気がないので、環境問題という深刻なことについて知り、考え、解決のために行動することなどとても「重い」「無理」「引く」に決まっています。
そして、程度の差はあれそうした状態に陥っているのは、若者だけのことではないようです。
日本の市民の多くが、環境問題についてあまりにも大きくて重く、解決は無理なのではないかと感じ、そのくせ「そうは言ってもなんとかなるんじゃないか」と甘く考え、積極的に取り組むことから身を引いてしまっているように見えます。
日本人の多くが「自分のことで精一杯」という気持ち・心理状態に陥っているのではないか、と私には思えます。
日本人の多くが解決可能になるところまで徹底して環境問題に取り組むには、「自分のことだけで精一杯」にならないくらいに心のエネルギーを取り戻し、さらに環境問題を「他人事」ではなく「自分のこと」と捉えて真剣に取り組むことのできる広い心をもつ必要があるのではないでしょうか。
いわゆる「環境問題」を本当に解決するには、環境問題とはどういうものかという情報の提供や、どうすれば解決できるかという方法の提示に加えて、誰が本気で解決する気になるかという心のエネルギーの問題を考えることが必須だ、と私は考えているのです。
いのちも物にすぎない?
さてでは、若者も含む多くの日本人がなぜ「自分のことで精一杯」になってしまい、解決の目途がつくほどの質と量で環境問題に取り組むことができなくなっている――と私には見えますが――のでしょうか。
それが、ニヒリズム・エゴイズム・快楽主義の問題なのですが、まずニヒリズムから論じていきます。
近代のばらばらコスモロジーでは、すべてのものが主体とは分離した研究対象として捉えられるようになり、全体はいったん部分に分析―還元され、その部分の組み合わせとして認識されるようになりました(この傾向は今でも続いています)。
そしてできるだけ小さな部分に分析されると、結局すべては原子や分子のような「物」から成っていると見なされるようになります。
すべてを物質に還元して捉えるものの見方は「物質還元主義」または省略して「物質主義」あるいは「唯物主義」と呼ばれますが、近代の合理科学主義はほとんど必然的に物質還元主義に陥る傾向をもっています。
物質還元主義的な科学によって自然は「物」に還元され、さらに産業によって利用対象と捉えられ「資源」と見なされるようになりました。
自然を資源と見なすものの見方はプラス面では先進諸国での産業の発展と貧困の克服をもたらしましたが、マイナス面では環境問題を生み出したことは前回述べたとおりです。
しかしそれだけでなく、物質還元主義的なものの見方が、人間以外の自然ではなく人間自身に向けられた時、もう一つの深刻な問題を生み出します。
ある一人の人のいのち全体すなわち生体を分析―解剖すると、脳や肺や心臓や胃や腸……という器官の組み合わせと捉えられます。
さらに器官は細胞に、細胞は高分子に、高分子は分子に、分子は原子に分析―還元されます。
そして、原子はいうまでもなく「物」です。
つまり、分析的に突き詰めて考えると、「人間は原子という物の寄せ集めにすぎない」という結論に到るのです。
そして、いのちももちろん物ということになります。いのち全体・生体をコントロールしている脳も、もちろん物です。
心も、脳の働きにすぎないと捉えられると結局は物にすぎません(実際、多くの脳科学者が「心も物質の働きにすぎない」と言っているようです)。
物の複雑な組み合わせとその運動にすぎないいのちや心に、絶対的な意味があると考えられるでしょうか。
人間の体は原子レベルで見ると、九九パーセントが水素や炭素や酸素や窒素で、後はごく微量の元素で出来ているそうですが、原子という「物」にすぎないものに絶対的な意味や価値があるでしょうか。
毎年行なっている学生たちへのアンケート調査の中に「死んだらどうなると思っていますか」という質問項目を入れていますが、多くの学生――数年前までは平均80~90パーセント――が「無になる」、「灰になる」、「土に帰る」といった答えを書いてきます。
戦後の物質還元主義的な科学教育のいわば「目的外の結果」です。
教えた側の意図にかかわりなく近代のマイナス面が伝わってしまったのではないでしょうか。
「生きている人間のいのちも心もどんなに複雑とはいっても結局は物の組み合わせと働きにすぎないし、死んだら、元の分子や原子に還元して終わりだ」と考えたら、意味としては「無になる」、「すべてが空しい」と感じられてくるのは、理の当然と言ってもいいのではないでしょうか。
近代のばらばらコスモロジー―物質還元主義の結論は必然的にニヒリズムだ、と私は思うのですが、読者はどうお考えでしょうか。
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