環境問題と心の成長 4
近代を公平に評価する
これまで述べてきたとおり、近代の産業文明には環境問題に関わって根本的な限界があると思われます。
とはいっても、やはり近代にはプラス面があり、私たちは大きな恩恵をこうむっています。
そのプラス面があまりにも大きいために指導者も市民も近代化という路線を変更することが難しいのだと言っていいかもしれません。
その点をしっかりと見ておかないと、公平を欠くことになりますし、そもそも路線を変更して先に進むことはできないでしょう。
本稿で私がお伝えしたいことは、「昔はよかった。昔へ帰ろう」ということではありません。
近代以前と近代それぞれのプラス面のどちらも失うことなく、それぞれのマイナス面は超えるという困難な課題を解決することによってしか、私たちは前に進めないのではないか、と考えているのです。
そういう意味で、近代文明のプラス面とマイナス面をできるだけ公平に見ておきたいと思います。
近代文明のプラス面
さて、近代のどこが優れているのか、非常に整理された論を展開しておられる富永健一氏の説をお借りしてまとめておきます(『近代化の理論』、『日本の近代化と社会変動』、『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』、講談社学術文庫、参照)。
①まず、技術的経済的領域の、特に技術面では、人力・畜力から機械力へという動力革命が行なわれました。
それは、さらに情報革命にまで発展してきています。これは、労働が効率的になる、便利になるという意味では、圧倒的にプラスです。
さらに富永氏は指摘しておられませんが、「医療技術」の発達も挙げる必要があるでしょう。病気の克服は人類の長年の夢だったのですから、これも近代のすばらしい成果です。
経済では、第一次産業から第二次・第三次産業へと比重が移り、自給自足経済から市場的交換経済(資本主義)へと発展してきました。
これは、産業化→社会の生産力の飛躍的な向上→貧困の克服という面だけから見るとまちがいなくプラスです。
しかし、一つの問題は、「貧困の克服」がなされたのはこれまでのところ先進国のみ(しかもある程度まで)だということです。
さらに繰り返すと、特に根本的に問題なのは、自由主義市場経済=資本主義的生産様式がはたして有限の地球環境と調和するのかという点です。
②政治的領域では、法が伝統法から近代法へと発展し、政治では、封建制が近代国民国家へ、専制主義が民主主義へと発展しました。
おおまかにいえば、「市民革命」の成果です。
個々人が多くの不合理な制約から自由になったという意味で、これもまた私たちが享受していて、決して後戻りできない、してはならない近代の大成果です。
③社会的領域では、社会集団は、家父長制家族から核家族へ、機能的未分化な集団から機能集団(組織)へと変化していきます。
それと並行して、地域社会は村落共同体から近代都市へと「都市化」を遂げていきます。
社会階層に関しては、身動きのつかない身分階層から自由・平等で努力しだいで移動が可能な社会階層になっていきます。
抑圧的で硬直的な身分制から、自由・平等な社会になったことは、誰が考えてもすばらしい「進歩」です。
私も、この点に関して前近代の身分制がよかったとか、それに帰ろうなどとは考えていません。
ただ、私は、大家族から核家族へ、村落共同体から都市へという方向には単純に肯定できないものも感じています。
しかし、私たちが戦後、体験してきたとおり、大家族から核家族へ、村から都市へという流れを通じて、個人が多くのしがらみから解放されて、とても気楽に生きられるようになったという面があるのも確かです。
④文化的領域では、まず社会の主流の知識が神学的・形而上学的なものから実証主義的なものへと大変動を遂げます。
いわゆる「科学革命」です。価値に関する面では、「宗教改革」と「啓蒙主義」によって、非合理主義から合理主義へという大きな変動・進歩がありました。
もちろんこれも、ある面、確かに大きな進歩・発展です。
私は、仏教、宗教について論じることが多いので、しばしば印象だけで、実証主義から神学・伝統宗教へ、合理主義から非合理主義へという反動・逆行的なことを主張しているかのように誤解されることがあります。
しかし、以上まとめた「近代化」の成果の主な部分に関しては大変な成果であり進歩であり、そのプラス面に関しては、「決して後戻りしてはならない、できない。どころか、不十分なところはさらに進めなければならない」と考えています。
そういう意味で、全面肯定はしていませんが、近代の成果は十分に評価しているつもりです。
近代の合理主義と科学
さて、そうした近代のプラス面は、何よりも合理主義と近代科学が生み出したものだといっていいでしょう(以下、簡略のため合理主義と科学をまとめて、「近代科学」と呼んで論じていきます)。
そして、実はマイナス面もそうだと思われます。
近代科学の方法の第1のポイントは、「主客分離」です。「主・客」というのは、英語でいえば「subject」と「object」ですが、日本語に訳す場合に、「主体」・「客体」と、「主観」・「客観」と2通りに訳すことができます。
第1に、自分がどう思っているか、伝統社会がどう考えてきたか、まして私や私たちがどう信じている、どう信じたいかという「主観」を脇において、対象=客体そのものがどうなっているかを「客観」的に観察・研究していくわけです。
そこが、それまでのキリスト教の教義(つまり信じていること=主観)を前提に体系化された神学・形而上学とまるでちがうところです。
神学・宗教の教学では、信じていること=主観と事実そのもの=客観を分離せず、信じていることに合うように事実を解釈する傾向がきわめて強かったといっていいでしょう。
それに対し科学は、正統的な教義がどうであれ、聖典にどう書いてあろうと、それが「客観的な事実かどうか」を問うたのです。
そのことによって、それまで信仰・教義・主観に覆われて見えなかった客観的な世界のさまざまな姿が見えてきました。
そこで、「科学と宗教の闘争」がさまざまなかたちで行なわれました(「科学と宗教との闘争』岩波新書、ドレイパー『科学と宗教の闘争史』社会思想社、参照)
そして、近代の歴史は、「客観」と「主観」を分離するという近代科学の方法が、物事のあり様を研究する上でいかに有効かを実に鮮やか示してきました。
「科学と宗教の闘争」は、欧米でも完全に終わったとはいえませんが、全体としては科学の圧倒的な優勢(完勝?)という結果になっていることはまちがいありません。
さて、近代科学の方法のポイントの第2は、「分析」(と「総合」)です。
観察する主体と分離して向こうに置かれた研究対象=客体の「全体」は、なるべく小さな「部分」へと「分析」されます。ばらばらにして「部分」へ還元するわけです。
そしてそれぞれの「部分」がどうなっており、それらの「部分」がどう組み合わさっているかを明らかにしていき、最後にばらばらの「部分」を元のかたちに組み立てます。それを「総合」といいます。
ばらばらにされた「部分」が組み合わされる=総合されると、それで対象・客体の「全体」が分かったことになります。
この「デカルト的方法」は実に切れ味がよく、この方法を使うと、ほとんど何でも分かるように思えました(しかしこれは仏教の視点からいうと「分別知」です)。
物事の全体を部分の組み合わせとして捉えれば、組み合わせはどうにでも変えられるようになりましたから、実に便利でした。
分析という方法が、さまざまなものを人間の都合のいいように組み換える「技術」を驚異的に発達させたのです。
その極みが、「遺伝子組み換え技術」でしょう。いのちのかたちを生み出す情報を分析し、それを組み換え、今までなかった新しいかたちを作り出すことさえできるようになりました。
こうした近代科学の基本的な方法は、まず、主体(人間)と客体(研究対象)を分離し、さらに客体も部分へと分離・分析するのですから、これはわかりやすくいえば「ものごとをばらばらにすることを原理にした方法」といってもいいでしょう。
そういう方法のお陰で、いろいろなことが客観的に分かってきた、そしていろいろに組み換える技術も発達し、産業も発達した……プラスばかりのように見えます。
どこが悪いというのでしょう?
続いて考えていきたいと思います。
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