前近代のマイナス面
いうまでもなく江戸時代・前近代にはマイナス面がありました。それは、連載の第4回目にお話しした近代のプラス面をそのまま裏返せばはっきりしますが、念のために簡単に見直しておきましょう。
①まず、技術面では、生産のための動力は人力や畜力であり非効率的で、庶民は重労働を強いられました。
医療技術は未発達で、幼児の死亡率は高く、寿命はかなり短かったのです。
経済は、農業や漁業と若干の軽工業で営まれており、生産力の向上はごくゆっくりとしたものであり、社会資本・流通システムなども不十分で、例えば口べらしのための間引きや天災による飢饉での餓死など悲惨なこともありました。
②政治は、伝統的な慣習法で営まれており、庶民は「お上」の不合理な扱いに対して合法的に抵抗する手段を持っていませんでした。
③特に社会階層は固定的な身分制で、低い身分に生まれた人々は、差別を受け、一生そこから抜け出すことが困難でした(江戸も後期にはかなり身分制が流動的になってきたようですが)。
そして個々人は、家や親族や村といったしがらみに拘束されて、自分の自由な意志で生きることができませんでした。
④文化の領域は、合理主義の目からすれば迷信・妄信といわれるような呪術的・神話的な宗教と、民主主義の目からすれば封建的身分制のイデオロギーと評される儒教によって営まれており、西欧近代のような科学合理主義的な精神は萌芽としてはあっても不十分でした。
どれを取っても、現代の私たちには信じられないくらいのマイナスです。
改めてこれだけ列挙すると、日本の前近代はやはり「ひたすら後れていていいところは何もなかった」ような印象を与えるかもしれません。
実際、筆者も大石慎三郎氏などの著作に触れて学び直すまでは、そういう感じで捉えていました。
前近代のプラス面①持続する平和
しかし同じようにマイナス面を裏返すと明快になってくるのは、日本の前近代・江戸時代には大きなプラス面もあったということです。
その第一にあげられるのは、二百六十年近くも平和な国家を持続させたことです。
大石慎三郎氏はこう述べておられます。
……江戸時代は、約二百六十年余り続くが、その間、内外ともに、一度も戦争していない……一つの巨大民族が、約二百六十年もの間全く戦争せず、平和を楽しみ、その間に文化と富を蓄積していった歴史は、世界にも例を見ない。明治以降、たかだか八十年の間に、対外戦争を繰り返していた日本の動きからは、到底理解できないような状況である。……豊臣政権の残存勢力と戦った大阪冬の陣および夏の陣(一六一四~一五年)と、キリシタン一揆の勢力と戦った島原の乱が終わってのち、十七世紀後半からは、徳川体制化では大政奉還に至るまで、諸外国との戦いはもちろん、大きな内乱もなく、ひたすら平和の時代が続くのである。
(市村佑一+大石慎三郎『鎖国 ゆるやかな情報革命』講談社現代新書3-4頁)
先にも述べたようにヨーロッパの近代化は、15世紀末「大航海時代」に始まるアジア、アフリカ、ネイティヴ・アメリカ世界の植民地化と植民地獲得戦争と本質的に一体のものでした。
大まかにまとめていってしまえば、近世と近代のヨーロッパはひらすら侵略し、たえず争い合っていたのです。
それに対し日本は、秀吉の朝鮮侵略(1592~3年文禄の役、1597~8年慶長の役)の試みと失敗はありましたが、それ以後、基本的には侵略をしていないのです。
もちろん、後の松前藩の蝦夷・アイヌに対する政策、薩摩藩の琉球に対する政策は他民族への侵略だったというほかないと思いますが、それは国を挙げて国策として意図的・持続的・広範囲に、というのではありませんでした。
日本という国全体としては、侵略せず侵略されない平和国家を長期にわたって維持し続けたのです。
15世紀末以降ずっと植民地化と植民地獲得戦争を続けていた近代ヨーロッパや、明治以降、たかだか80年の間に、対外戦争を繰り返していた近代の日本と、260年近くもひたすら平和な時代を続けていた前近代の日本とを比べて、読者はどちらをプラスと評価されるでしょうか。
前近代の日本は、はたして「ひたすら後れていていいところは何もなかった」のでしょうか。
西欧近代的な生産力―経済の発展ではなく、平和の持続をものさしとすれば、むしろこれは大きな世界史的達成だったと評価してもいいのではないか、と筆者は考えています。
明治維新以降の日本人は、ともすればモデルを西欧に求めるために、歴史に関して近代と近代以前を論じる場合にもおなじことをやりがちだったのではないでしょうか。
しかし、日本の前近代・江戸時代はヨーロッパの前近代とは決定的に異なる長期の平和の達成という大きなプラス面を持っていたことを、今、私たちは思い出す必要があると思うのです。
鎖国は自衛手段だった
そして、一般的・教科書的には日本が後れた原因とされてきた「鎖国」政策も、見方を変えるとヨーロッパ世界による植民地化のグローバリゼーションへの対抗措置というか自衛手段だったと理解できるようです。
ここでも大石氏の所説を引用しておきます。
戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島国日本ははじめて世界史にとりかこまれることとなった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史にとりかこまれたという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難題に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして〝鎖国〟という体制はその解答であった。
(大石慎三郎『江戸時代』中公新書、19~20頁)
そもそも1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見は、実は黄金の国ジパングの富を求めた航海の怪我の功名だったらしく、1521年のコルテスによるアステカ帝国の征服や1532年ピサロによるインカ帝国の征服と、1543年のポルトガルによる種子島への鉄砲の伝来は、みなおなじ意図――つまり植民地化の野望――の流れにあったと推測してまちがいないようです。
決して親切にも進んだ文明を後れた文明の人々に伝えようとした、ということではないでしょう(これはずっと後の「黒船」も同じだと思われます)。
当時の日本が他のネイティヴ・アメリカなどのように暴力的な植民地化の憂き目に遭わなかった理由として大石氏は、日本人の知的素養が高かったことや、頂点だけ押さえればすべてを支配できるような統一的権力がまだ成立しておらず、それぞれかなり強力な軍事力を持った権力がばらばらに存在していて、メキシコやペルーでのような植民地経営方式を採れなかったことなどをあげています。
わかりやすくいえば、野蛮人扱いをして、蔑視し、騙したり、脅したり、圧殺したりして思いどおりにするには、当時の日本人はあまりに賢くて扱いづらかった、ということでしょう。
そして統一政権(織田、豊臣、徳川)が確立する過程で、日本人は鉄砲などについても西欧の軍事技術―軍事力にかなり追いつき、鎖国というかたちで西欧人が侵入してくることを拒否し、いわば水際作戦で食い止めるだけの力を蓄えたのです。
文明(この場合は西欧文明)=善と思い込んでいると、鎖国は先進文明を取り入れる機会を逃した愚かな行為と思えてきますが、日本は交易の相手を西欧諸国の中では比較的無難なオランダと中国に限定することによって侵略を阻止しながら、必要最小限の文明は輸入するという巧妙な方法を選択したとも評価できるのです。
しかも、言葉の印象で誤解されてきたのと異なり、それ以前の貿易額よりも「鎖国」以後の貿易額のほうが多いのだそうです。
貿易という面でいえば、むしろ「限定的開国」だったともいえるようです。
別の言い方をすれば、「鎖国は西欧文明の流入と西欧権力の侵入・侵略の両方を阻止した」といってもいいでしょう。
そして、侵略しない・加害者にならないだけでなく、侵略されない・被害者にもならない平和な国を持続させるには、当時、鎖国以外の方法は考えにくかったのではないでしょうか。
江戸期の日本について「天下泰平の夢をむさぼっていた」という言い方を聞かされてきましたが、私は最近、むしろ〔マイナス面もあったけれども一定のレベルで〕「和の国日本という夢を実現していた」と言い換えたいという気が強くしています。
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