環境問題と心の成長 7

2009年07月08日 | 持続可能な社会

   環境問題と心の成長 7



 ばらばらコスモロジー―無神論―倫理の崩壊

 近代のばらばらコスモロジーの見方からすれば、世界はすべてばらばらの物で出来ていて、心も物の働きにすぎないということになります。

 それだけでも「すべてには絶対の意味はない」というニヒリズムを招きます。

 ところがそれに加えて、すべてを物に還元する見方からすると、物質として実在を検証できないような「神」――日本でそれに当たるのは「神仏・天地自然・祖霊」――という精神的存在は神話や迷信として否定されることになります。

 近代科学に伴う無神論です。

 近代的な無神論には、迷信の否定という意味で一定の妥当性があると思いますが、しかし重要な欠陥もあるのです。

 もし神つまり絶対なる者が存在しないのならば、「絶対なる者が定めた絶対の掟・倫理というものも存在しない」ことになります。

 倫理や法律などの社会的規律はすべて、人間が決めた相対的なものにすぎないということになるからです。

 そうなれば、私ではない誰か他の人間という相対的存在が私の関知しない所でいわば勝手に決めた掟を、私が絶対に守らなければならない理由はなくなります。

 もちろん社会的ルールは、守らなければ、非難されたり処罰されたりするでしょう。

 しかし、「非難されても、処罰されてもかまわない」と居直ってしまえば、守る必要はなくなります。

 ふつう多くの平均的な市民はそこまで思ったりはしませんが、ふてくされ居直ってそう思い実行する犯罪者・「懲りない面々」が現に相当な数いるのではないでしょうか。

 それに、隠れたところをも見ている神(あるいは神仏)がいないとなれば、陰で隠れてやってばれさえしなければ、処罰を受けることもありません。

 隠れてうまいことをやった者の勝ちです。

 現代日本では、遊びで万引きをする青少年から汚職や偽装をする政・官・財界の大人たちまで、無神論と結びついたニヒリズムがもたらすそうした倫理の崩壊(モラル・ハザード)が蔓延しているように見えます。

 さらに、人間は死んだら物に還元して終わりであり、死後の生などないと思うと、死後の報い(地獄に堕ちる等)もないわけですから、「もう生きていたくないから死んでもいい・死にたい」と思った人がひどい犯罪を犯すことを止める内面的な歯止めはどこにもなくなってしまいます。

 実際すでに、「生きていたくないから、社会への仕返しに人を殺して、死刑になってもいい」と考え、実行した、人間が一人二人ではなく何人も現われており、死刑になった人もいます。

 それらは深刻な「ニヒリズムによる犯罪」だ、と私は捉えています。

 もちろん近代だけでなくいつの時代にも、倫理感の崩壊した人間は多かれ少なかれいたようです。

 しかし現代では、ニヒリズムの蔓延によってその数や比率が急速かつ深刻なレベルまで増大しつつあるように思えます。

 そして、人間同士での倫理感さえ崩壊した人物にとって、人間と自然・環境の倫理などまったく心の片隅にさえ浮かんでこないことは言うまでもありません。

 やや結論を先取りして言ってしまうと、環境倫理が守られなければ環境が守られることはありえず、倫理が成り立たなければ環境倫理は成り立ちません。

 そして、ニヒリズムが克服されないかぎり倫理は絶対的な意味では成り立ちませんから、環境倫理も成り立たず、したがって環境も守られないでしょう。

 環境問題の解決には、一見遠い話のように思える、ニヒリズムの克服―倫理の再確立という心の問題の解決も必要・不可欠である、と私は考えています。


 ニヒリズムと自殺・うつ

 さて少し結論を急ぎすぎましたので、話を元にもどします。

 近代的なばらばらコスモロジーでは、人間の心もいのちもすべてが物質であり、かつ神は存在しませんから、突き詰めると必然的にニヒリズムに陥ります。

 ニヒリズムに陥ると、モラルや法律を犯してはいけない理由、人を殺してはいけない絶対的な理由が見えなくなります。

 (連載のもっと後で述べるように、「なくなる」のではなく、「見えなくなる」だけだ、と私は考えていますが)。

 そしてさらに同じわけで、自分という人を殺してはいけない・自殺してはいけない理由も見えなくなります。

 生きていることには絶対の意味はなく絶対の倫理もない(と思う)ということは、「つらくても苦しくても悲しくても、命のある間は生きていなければならない=絶対に死んではいけない」理由がない(ように思える)ということです。

 そうすると、何かつらく苦しく悲しいことがあると、生きていけないという気分になり、簡単に死にたくなり、実際に死んでしまう=自分を殺してしまうという結果になります。

 そういう悲惨な出来事が、現代の日本では現実に日々起こっているのではないでしょうか。

 若者に関しては、これまた「いつの時代でも若者は自己確立の悩みを経るのであって、死にたくなったりしたものだ」といった言い方もできないことはありません。

 確かに、「ニヒリズム自殺」は、最近始まったことではないようです。

 しかし私が大学の現場で若者たちと接触している実感からも、アンケート調査からも、そしてより広範な社会調査からも、若者たちのリストカット、自殺願望、自殺未遂、実際の自殺などに行動表現(アクティングアウト)された「生きている意味がわからない」=「なぜ自殺してはいけないのかわからない」という心の状態は質量ともに深刻化しているように思われます。

 生きる意味がわからない・死にたいという心理状態に陥りながらも「何となくいけないことだと思う」とか、「家族が悲しむから」とか、「やっぱり恐い」といった理由で死なないでいる人のかなりは、「うつ」状態に陥るなど心を病んでいます。

 生理的には生きていても心理的にはかなりの程度死にかかっていると言ってもいいでしょう。

 自殺を考えたりうつに陥ったりしている人が「自分のことで精一杯」になって、環境のことなど考えられないのは当然すぎるほど当然のことです。


 ニヒリズムとエゴイズム・快楽主義

 しかし現代人、特に若い世代の多くは、突き詰めるとニヒリズムに陥りうつになってしまう危険をなかば無意識的に感じ取っていて、いわば「生き延びるための戦略」として、前回あげたエピソードの女子学生の友人のように突き詰めて考えないようにしているのではないでしょうか。

 これも前回述べたことですが、突き詰めて考えなくても、熱心なヒューマニストになるのなら、とりあえずそれはそれでいいのですが、多くの場合そうはなっていないようです。

 では、どうなるのかというと、一方では個人主義的なヒューマニズムを学校などで建前として教わりながら、もう一方では倫理の根拠を見失っているために、「個々の人間にはかけがえのない尊厳・権利がある」といったヒューマニズムの考え方を「個人=自分がいちばん大事」というふうに矮小化して受け取ってしまうようです。

 私は学生へのアンケートに「自分の人生は自分のものだ、と思いますか」と「人間は結局自分がいちばん大事だと思うものだ、と思いますか」という項目を入れていますが、この2つの問いにも80~90パーセントが「そう思う」と答えます。

 ヒューマニズムの倫理ではいちおう「自分が大事なのはみんなそうなのだから、他人も大事にしなければならない」ということになるのですが、そうしなければならない絶対の理由が見あたらないので、「自分がいちばん大事」なのは当然であり、心に余裕のある時は「他人も大事」にできるけれども、余裕がなくなってしまえば大事にできなくなる、それどころか「自分だけが大事」になって自分の利益のためには人を無視したり傷つけたりするという事態を止める根拠は見えなくなります。

 ニヒリズムからは倫理は生まれず、したがって「自分が大事」から「自分がいちばん大事」そして「自分だけが大事」というふうに、個人の尊厳・権利という考え方がエゴイズムへと滑り落ちていくことを止める心理的な歯止め・倫理も生まれてこないのではないでしょうか。

 そして、一方では人生には絶対の意味はないとうすうす感じながら、それでも生きていくために、「人生は自分のものだ」、「自分がいちばん大事だ」、自分が面白く、楽しく、楽に、幸福に、生きがい――広い意味での快楽――を感じながら生きていくことにしか、人生の意味というか生きる理由はない、という考えを採用するようです。

 「夢があれば生きていける」という言葉もありますが、それは裏返すと「夢がなくなれば生きていけない」ということにもなるでしょう。

 多くの現代人が漠然と「考えすぎてうつやニヒリズムにならないためには、エゴイズムと快楽主義で行くほかない」と考えているように私には見えます。

 そういう状態では、「自分のことで精一杯」で、環境のことなど考える心の余裕がないのは当たり前です。




↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする