空とは何か 1

2006年01月15日 | 心の教育

 大乗仏教のもっとも中核的な教えは「空(くう)」だといわれています。

 しかし、大乗仏教が日本に入ってきてから1450年以上経っていますが、残念なことに「空」の思想は必ずしも日本人全体のものになっているとはいえないようです。

 「空」という文字の印象のせいもあって、これまでしばしば、「空しい」とか「空っぽ」つまり「意味がない」とか「何もない」というふうに誤解されてきたようです。

 そこから派生して、「空を覚る」ということは、人生はすべて空しい、すべて意味がないということを自覚して、すべてを諦めてしまうことだという誤解も生まれました。

 すべてのことを諦めてしまって、何事にも執着しないのが「悟り」だと考えられがちだったのです。

 非常に残念なことに、いわゆる「仏教界」の外部だけではなく内部にも、そういう誤解がかなりあった、今でもあるように、私には見えます。

 「え、違うんですか?」と驚かれる方もあるかもしれませんが、ここではっきり言っておくと――私の理解では――「空」とはそういう意味ではまったくありません。

 では、「空」とはどういうことなのでしょう。

 哲学の用語でいえば、「実体ではない・非実体」ということです。

 すでに2度ほど哲学用語としての「実体」の意味をお話ししてきましたが、これは仏教をしっかり理解するうえで、決定的に重要なので、もう一度繰り返しておきます。

 (しっかり頭に入れていただくために、これからややしつこいほど何度も繰り返すことになるでしょう。)

 まず、①他のものの力を借りることなくそれ自体で存在する。

 次に、②変わることのないそれ自体の本性を持っている。

 そして、③いつまでも・永遠に存在することができる。

 この3つの条件を備えたものが「実体」と定義されています。

 「空」とは、そういう哲学的にはっきり定義された意味での「実体」といえるようなものは「何もない」という意味です。

 ですから繰り返すと、「何もない」といっても、無条件に何もないというのではなく、「実体といえるような条件を備えたものは何もない」ということなのです。

 大乗仏教では、いろいろな感覚で感じたり、意識で認識したりすることができるような「現象」があることは、当然のことながら認めています。

 しかし私たちが、それ自体で存在し、それ自体の本性を持っており、いつまでも存在する実体のように感じているものは、みなよく観察していくと、「現象」としてはありありと現われていても、決して「実体」ではない、というのです。

 話が抽象的でわかりにくいかもしれませんから、具体的な例を挙げて説明していきたいと思います。

 「何もない」というのですから、何を例にしてもいいのですが、もっとも身近な「私」あるいは「人間」を例にとりましょう。

 私・人間は、自分自身で生まれてきたでしょうか?

 自分で生まれてきた人は一人もいないということを、これまで何度か確認してきました。

 さらに私たちは日常的には、自分で生きているつもりですが、はたして自分だけで生きているでしょうか? 生きていくことができるでしょうか?

 もちろん、できませんね。

 水や空気や食べ物や、大地や太陽や、数え切れないさまざまなもののおかげで、私たちは生きることができます。

 他の人や他の物とのつながりのおかげで、私たちが生まれてきたし、生きていることができます。

 そんなことは当たり前ではないか、と言われるかもしれません。

 確かに当たり前なのですが、その当たり前のことをいつもちゃんと自覚して生きているかどうかが問題なのです。

 誰一人として自分だけで生きている人間は一人もいない――そういう意味で、私・人間は「実体」的な存在ではありません。

 実体ではなく「現象」というべきでしょう。

 「縁起だから空である」という定型句を思い出してください。

 私・人間は、他のさまざまなものとのつながりのおかげ・縁によって存在していますから、実体ではない=空である、ということになります。

 ここでまた、言葉の印象で、「だとしたら、私の存在、人間というものは結局、空しいものだということになるんじゃないか。やっぱり仏教の教えは暗い」という気がする方がおられるでしょうが、あわてないで、ゆっくりと話についてきていただけると幸いです。

 少し長くなる話の結論は、「すべては空だとしたら空しい」のではなく、「すべては空だから素晴らしい」という明るい話になりますから、ご安心、あるいはご期待ください。


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十七条憲法の講義への反応

2006年01月14日 | 歴史教育

 昨日で、今年度最後の授業もすべて終わりました。

 2つの学部では、聖徳太子の『十七条憲法』の全文を紹介し、解説しました。

 それは、日本人としての、正当な自信・誇りを持つことができるようになることが目的でした。

 もちろんすべての学生ではありませんが、感じでいうと8割以上の学生が、その意味を理解してくれたようです。

 以下、やや多いのですが、あえて紹介しておきます。

 一言いっておきますが、私は政治的には、右でも左でも、いわゆる中道でもありません。

 私たちは、それらのそれぞれに妥当な主張を統合したいと思っているのです。

 それが、成功しているかどうかはみなさんの評価にお任せするとして(拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』〔大法輪閣〕、ケン・ウィルバー/拙訳『万物の理論』〔トランスビュー〕参照)。



 3年 男

 十七条憲法の素晴らしさはよくわかりました。

 これは聖徳太子のことに限りませんが、日本の歴史教育が過度な自虐から脱却し、かつ右翼的にならない、正当な教育を行えるようになるにはどのくらいかかるのでしょうか。

 先生の仰る通り、まずは自分の生きる姿勢を固めてから、市民として考えていきたいと思います。

 1年間ありがとうございました。


 2年 男

 十七条憲法には、おどろきました。真摯さ、聡明さというのが、簡単な文面なのにすごく伝わるものなのだなと感じました。

 聖徳太子という人について、今まではもはや神話と同じ感覚で見ていたのに、本を読んだだけで、その理念や情熱を、横にいるかのように感じます。高潔な志と、誠実な文に心が動きました。

 やはり日本国憲法はだめです。誇れない。美しくないので。しかし、私は十七条憲法の国に生まれたことをとても誇りに思います。

 ……できることをやらねば。


 2年 女

 憲法らしくないと思うけれど(道徳の教科書のようで……)、自分の国の昔の憲法に感銘を受けました。特に「まごころを持つ」くだりの所は、何かとはっとさせられる気になりました。

 こんなことが、この国のルールとされていたことに、日本人であることに誇りをもつことができました。

 現代人として、大人として(先日成人式でした)、先人の方々に恥じるようなことだけはしないように、しっかり地に足をつけて、進んでいこうと思います。


 3年 女

 大昔に制定された憲法が、今施行されている憲法より、理に適っていることに驚きました。

 確かに現在の日本は、十七条の憲法はいくら良いからといっても、状況的に採用することはできないでしょう。ですが、個人個人のルールとして仏教の教えの根付いた十七条の憲法を採用することは可能であると思います。

 また、私個人としては国を挙げての1大意識改革よりは、1人1人が信じ、納得し、それが次第に地域・国全体に波及していく方がルールの在り方としては良いのではないかと思います。

 世界情勢に敏感である政府が悪いというのではなく、ただ振り回されるような確固としたものがない政府が私はあまりよくないのではと思います。

 1年間、この授業をとって、仏教に対する考え・理解が深まったとともに、自然そして世界の見方の新たな視点を得ることができたように思います。

 1年間ありがとうございました。


 3年 男

 十七条憲法と聞けば、日本人であれば誰でも聞いたことあると思います。私も、もちろん知っていました。けれども「どういったものか」ということを深く考えたことはありませんでした。

 けれどもこの授業で扱われ、触れていく中で、改めてこの憲法の大切さと尊さを感じることができました。同時に自分自身の国の憲法について、能動的に考えていこうという姿勢を持っていなかったことに対してとても恥ずかしく思いました。

 まず第一に、前期でも学んだことではありますが、大戦後アメリカによって形成されたものが今現在の憲法なのです。つまりアメリカ主体で出来上がった憲法の下、私たちが生きてきたのだ。そのことを冷静に考えてみると、とても虚しく思いました。ただ流されているだけだったんだなと思いました。

 ですから、もう一度、きちんと読み、日本人である私自身、どういったものかということ能動的に理解しようとする姿勢を持っていきたいと思うようになりました。私自身の〝心〝と〝頭〝を使い、こういった作業していかなければならないと思いました。

 おそらく、私と同じような若者は多数いると思います。ですから、そういった多くの人たちもまずは、憲法に触れていくことから始めていくことが大切だと思います。そういった人たちにも私のように〝触れ合う機会〝に出会うきっかけがあればいいのにと思います。

 戦争やアメリカといったさまざまな要因のもと、今の憲法はあるわけだが、聖徳太子は初めに憲法を作った際に、平和が第一と唱えているのです。このことはとても大切なことだと思うし、人として生きていく上でかけがえのないことだと思います。

 同時に授業でも先生がおっしゃっておられましたが、われわれは和の国を目指した聖徳太子の子孫なのです。

 今のままの日本は〝無関心社会〝だと思います。私は今回十七条憲法を見てきて、1番にこういった社会について見直していかなければならないと思いました。特に私たちの世代の人間が、本来の憲法の意味を考えていかなければならないのだと思いました。

 聖徳太子の和というものは、「まあまあ、と事なかれ主義ではなく、きちんと話し合い、意見が合わなくても、対立するのではなく、きちんと理解し合い、仲良くしなさい」というものであり、こういったことも素敵なことだと思いました。それだけではなく、聖徳太子は、人間だけではなく自然や万国をも視野に入れ、考えていたのだ。7世紀初頭にもかかわらず、世界基準になるようなことを考え出していたという点にも感服しました。

 何度も述べましたが、十七条憲法については本来の形をもっと理解して、見直していこうという日本人の姿勢がこれから大切になっていくと思いました。


 聴講生 女

 率直にいえば、今、国会議員にこれを講義してほしいです。本当の賢者が治めるならば、憲法はこの十七条でこと足りるようにも思います。

 しかし、現実問題としては、現在、国を治めている方々がこのような憲法が存在していることを国民に知られるのはいやでしょうね。自分たちとずれがありすぎる。

 国会議員の方々が、なぜ先生の教えを正面から受けないのか? ずっと不思議でしたが、その理由が少しわかったような気がしました。

 民主主義の欠点の話はとても興味深く聞きました。現在の政治が民衆のレベルに合っているというのは、とても反省すべきことだと思いました。小市民でいるのは、本当は楽しくない。

 正しい教育を受けたことに感謝して、まず国民に、それから願を持つ人間を目指します。人間同士の平和と自然との調和を心がけます。


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論理療法への感想

2006年01月12日 | メンタル・ヘルス

 もう一つの大学の授業も、今日が最終でした。

 ここでは、後期、仏教、特に唯識、そして論理療法の授業を行ないました。

 学生たちは、教えたこちらが感動するほどよく吸収してくれました。

 教師と○○○は3日やったらやめられない。

 論理療法の授業に対する感想を、また4つシェアしたいと思います。

 これは、単に自分の教育力を自慢したいのではありません(ちょっとはそういう気もあるかな〔笑〕)。

 若者たちは、ちゃんとしたものをちゃんと伝えてあげれば、ちゃんと受け止めてくれる、そういうちゃんとしたものを提供するのは大人の責任だ、ということを大人のみなさんに伝えたいのです。

 教師や父母のみなさん、ぜひ、こうしたことを学んで、伝えて、若者たちを元気にしてやっていただきたいのです。

 それから、まだ知らない若者の諸君に、みなさんの同世代がこういうふうに評価していますよ、よかったら学んでみませんか、とお誘いしたいのです。

 彼女ら、彼らの希望もあって、17日から論理療法の講座を行ないますので、その宣伝・広報という意味もありますが。

 なお、感想文が女子学生ばかりなのは、受講生自体9割以上女子であるためです。特に女子学生ばかり選んだのでありません。


 2年 女子

 今まで、仏教の唯識の内容などは、授業を受けていても、どこか実感がわかなかった。しかし、論理療法のABC理論は、聞いていて、自分の心の改善につながっていったと思う。今まで、私は、何か失敗してしまったとき、その失敗をしてしまったこと自体を悔やみ、さらに落ち込んでいった。また、再度同じ失敗をしないかどうか、不安に思っていると、また同じ失敗をしてしまうという悪循環に陥ってしまうということがよくあった。その悪循環を、なくすお手伝いをしてくれたのが、ABC理論であった。ABC理論の授業を受けたことで、本当は、失敗それ自体を悔やんでいるのではなく、失敗と思い込む信念が結果をもたらしていることがわかった。私はこれを聞いたときに、ハッとした。また、感情には健全な感情と不健全な感情があることを知った。すぐに改善できるかはわからないが、「失敗する→私はダメな人間だと落ち込む→また失敗をしてしまう」という今までの悪循環を、「失敗する→次は頑張ろう!→成功する」に変えられるように、健全な感情や信念を持とうと思う。


 2年 女子

 論理療法を学んだことによって、私は落ち込むことが意味のないことだとわかりました。私は今まで、どちらかというと落ち込むことが好きでした。いつまでも、あーしなきゃよかった、こうしておけばよかったと後悔したり、他の人と比べて落ち込んだりしていました。落ち込んで、ぐたぐたいうことで、その失敗などの傷の程度が軽くなると思っていたのです。
 しかし今は、落ち込んでも労力の無駄だと知り、くよくよ考えないで、しかたないと思うように心がけたら、不思議と以前よりもポジティブな気分でいられるようになりました。
 来年は仏教のゼミに入ります。この論理療法も今後、勉強して、幸せでいられる時間を増やせたらと思います。
 私に知恵となるような、たくさんのことを教えていただいてありがとうございました。


 2年 女子

 rB(合理的思考―筆者注)と irB(非合理的思考) の話がとてもわかりやすくて、納得できた。この話を聞いてから、何かめげるようなことがあっても、「ちょっと待てよ……これは不健全な感情ではないか?」と考え直すことができるようになった。そして、自分で自分を悪い感情の中に引き入れてしまうのではなく、心が健やかになるように意識を向けることがすごく大切なのだとわかった。自分を幸せにできるのは自分だということに気づくと、1日1日をもっと意識的に創意工夫をして楽しく過ごそうと思うようになった。それまでは結構なんとなく生きていてすぐ他人を恨んだりしていたけれど、今は自分自身が全身パワー全開で生きているので他者の目もそれほど気にならないし、そう生活し始めたことにやって、良い人、良い本、良い音楽に出会うことができた。論理療法にそれだけの説得力があったから、私がこのように考え行動できたのだと思う。とても感謝している。


 2年 女子

 論理療法とは本当に素晴らしいものだと心の底から感じます。前期の授業を受けた後も、私は前向きになれたと思いましたが、論理療法になってから、より人生を楽しめている気がします。私は「物事がどう見えるかはその人の心しだい」という言葉が、とても心に響いたので、以来いつも持ち歩いている手帳に書き留めておいて、落ち込んだときなどはその言葉を見て、合理的な考え方をするようにしています。また、自分の人生が前より楽しめていて、心にゆとりを持ったせいか、友人や他人に対しても優しく接することができるようになった気もします。
 また、must 化を相手にしなくなること、自分で must と思わないようにすることによって、気分がとても楽になりました。物事の捉え方がとても柔軟になったと思います。そして論理療法を知っていることで、友達が悩んでいたり落ち込んでいたりするときにはアドバイスもできるようになりました。完全に元気になってもらえなくても、論理療法という考え方もあるということを知っているだけで、その人の心も違うと思います。 
 この授業をとって、また、先生に出会えたことに心から感謝しています。ありがとうございました。


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授業の成果

2006年01月11日 | 心の教育

 昨日で、1つの大学での講義が終わり、最後に学生たちに感想を書いてもらいました。

 以下のようなうれしい感想文をたくさんもらって、今年度も授業をやってよかったな、と心から感じました。

 4つだけ、シェアさせてください。


 1年 男子

 1年間、この現社と宗教の授業を受けて、ひとつ大きく変わったことがあります。それは生きていて、たびたび、感じられる、空虚感からの解放です。宇宙の誕生、地球の誕生、生命の誕生、という大きなスケールをはじめから学び、しかし、今の自分とは決して分別して考えられるものではなく、とても不思議で、感動をおぼえたのを忘れられません。また仏教の思想から、人間の成長とは何かという根本的なことから考えさせられ、これから生きていく上で大事なことを学んだと思いました。1年間ありがとうございました。


 1年 男子

 私がこの講義を受けて本当によかったということは、人や動物、木、石など全ては宇宙があるから存在しているのであり、全てが宇宙の1部であり、全てがで平等であるということだ。今まで何も考えずに生活していた私にとって、この話を聞いたときはとても力強いものを感じた。それと同時に、世界の見方も変わり始めて、今まで1つ1つのことがらに興味、関心を持ちながら生活することができて、とても楽しい大学生活を送れています。生きている時間の中で今が1番楽しいかもしれません。それは、この講義に出会えることができて、自分というものを変えることができたからと思っています。本当に1年間ありがとうございました。


 1年 女子

 私はこの授業をとって、本当によかったと心から思います。前期では、今の日本はどうしてこうなってしまったのか、と疑問に思っていたことが解決したし、自分に全く自信がなかったけれど、前向きに考えられるようになれたと思うからです。私は自分で言うのも変ですが、真面目です。でも、もっと遊んで過ごしてみたい、親に逆らってでももっと自由に行動したい、と心のどこかではずっと思っていました。でも、真面目でいることは悪いことじゃない、と聞いて、なんだか安心できました。唯識の授業でも、日本にとって重要な仏教について学ぶことができました。日本人で、仏教なのに全く仏教のこと知らなかった私にとっては、貴重な授業でした。

 1年間本当にありがとうございました。私にとって、とても良い勉強になり、とてもためになること教えてもらいました。ありがとうございます。


 2年 女子

 先生の授業を1年間受けてきました。初めてのお授業では、今までの私の考え方が180度変わったような、「ああこんなふうに考えることができるんだな」とびっくりした覚えがあります。授業を受けてくにつれて、フィールドワークや、教室内で目を閉じて感じてみようなど体験型のものも多く、高校まででは経験できなかったことを学ぶことができたのもとても新鮮でした。

 前期の授業で1番心に残っているのは、レポートにも書きましたが宇宙観です。コスモロジーという考え方をしたことがなかったので、この授業を聞いて私という存在を初めて見つめることができたと思います。私なんか…と考えがちだった私が、宇宙の一員だ、すべては一つなんだと感じることができたことで、「生きる自信」を少し得れたと思います。先生もおっしゃっていましたが、この気持ちはすぐ忘れてしまいがちです。時々先生の授業を思い出し、本を眺めながら考えていきたいと思います。

 後期では八識の話が1番思い出深いです。特に自分は自分だと考えてしまう、人は自分本位な存在だというところに納得してしまいました。マナ識、アーラヤ識はきっとすべての人に存在すると思います。でも、それに気付く人はほんのひとにぎりの人ではないでしょうか。私が先生の話を聞いて気付くことができました。大きなことです。気付くことができたのなら、この経験を生かして少しずつ考えることが大切だと思います。そのきっかけを与えてくれた先生に、とても感謝しています。

 まだまだ未熟で、この気持ちも忘れてしまうかもしれません。でも先生のおっしゃっていたとおり、忘れても思い出すことができればいいのです。少しずつですが頑張ろうと思っています。1年間ホントにありがとうございました。


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大乗仏教の経典

2006年01月10日 | メンタル・ヘルス

 西暦紀元1世紀頃以降、空の思想を述べた『般若心経』他の般若経系統の経典が続々と誕生してきます。

 これらの経典は、日本仏教では、真言宗、天台宗、禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)など、広く用いられています。

 それから『維摩経(ゆいまぎょう)』も作られます。これを依りどころとする宗派はありませんが、特に禅宗では重視されてきました。

 これに対する注釈書を聖徳太子が書いています(否定する説もありますが)。

 さらに『法華経(ほけきょう)』で、これは日本の仏教では、天台宗と日蓮宗および法華系と呼ばれる新宗教が依りどころとしている経典です。

 これに対しても、聖徳太子は注釈書を書いています。

 それから『華厳経(けごんぎょう)』で、これは東大寺の華厳宗が依りどころとする経典です。

 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』(まとめて「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」といいます)は、浄土宗、浄土真宗、時宗など浄土系の宗派の経典です。

 これらは、学問的には「初期大乗仏典」と呼ばれています。

 大乗仏教は、一般の人間にはついていけなくなってしまった部派仏教の専門的な理論に対する批判として出てきた面がありますから、最初はあまり体系的に述べられたものではありませんでした。

 ところが、いったん小乗仏教対大乗仏教というふうに分かれ、対立関係が起こってくると、大乗の側でもやはり理論を整備しなければならなくなります。

 そこで大乗の主張を徹底的に理論的・体系的にまとめたのが、龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)です。

 説によって年代の前後がありますが、一説では150年から250年頃の人です。

 2,3世紀頃になると、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるお経が出来てきます。

 例えば『勝鬘経(しょうまんぎょう)』、『如来蔵経(にょらいぞうきょう)』、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』などです。

 これらは、特定の宗派の経典にはなっていませんが、『勝鬘経』に対して聖徳太子が注釈書を書いています。

 それからこの授業で一番重点をおいてお話ししていく「唯識(ゆいしき)」という学派の一番古い経典である『解深密経(げじんみっきょう)』などが作られていきます。

 日本では、法相宗の興福寺や薬師寺、北法相宗の清水寺などが依りどころとする経典です。

 それから今日ではもうサンスクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』もこの時代に書かれたようです。

 続いて、5世紀ころ、「中期大乗仏典(第2期)」として、『薬師如来本願経(やくしにょらいほんがんきょう)』、『地蔵菩薩本願経』など、特定の宗派に限らず日本人全体に広がった薬師信仰や地蔵信仰の元になったお経が作られます。

 そして7世紀ころ、大乗仏典としては後期にあたる密教の経典が出来ます。

 『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』などで、真言宗の依りどころとされ、天台宗でも密教の分野で重んじられる経典です。

 こうして見てくると、日本の伝統的な仏教がすべて大乗経典を依りどころにした「大乗仏教」であることがわかります。

 ということは逆にいうと、かたちだけに限れば日本の仏教はゴータマ・ブッダの教えた仏教そのままを受け継いでいるのではない、ということです。

 現代の日本人が「仏教」について考える場合、これはきちんと押さえておかなければならないポイントだと思います。



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大乗仏教

2006年01月09日 | メンタル・ヘルス

 西暦一世紀前後、「大乗」と自称した新しい仏教の流れが興ります。

 先にもいいましたが、それまでの流れを批判して、「自分だけが学んで、自分だけが瞑想して修行して、自分だけが覚るというのは、それはいわば、迷いのこちららの岸から覚り・救いの向こう岸に行くのに、自分一人しか乗れない小さな乗り物・小乗だ。それに対して自分たちは、自分だけではなくてみんなで一緒に迷いや苦しみや悩みのあるこの世界から、そういうことがすべてなくなった向こうの世界にみんなで渡って行こうとする。そういう大きな乗り物なのだ」と主張する流れです。

 こうして、「小乗仏教」と「大乗仏教」という違いが出来たのですが、「小乗仏教」という言い方は、あくまでも大乗の側から見たやや偏りがある批判といえないこともありません。

 かつて「小乗」と呼ばれた流れが、今日まで東南アジアに伝えられていて、上座部またはテーラヴァーダといいます。

 実際に行って修行した方たちから聞いた印象では、そのお坊さんたちの修行の深さや境地の深さ、行ないの清らかさに関しては、「大乗仏教」を自称している日本のお坊さんたちの多くよりも徹底しているようです。

 そういう意味で、必ずしも「小乗仏教はだめ」とか、「劣っている」といえないところがあるようです。

 それはもちろん平均的なレベルの話で、東南アジアにも堕落した僧はいるでしょうし、日本にも立派なお坊さんはおられます。

 しかし、私の知る範囲では、特に戒律をちゃんと守っているかどうかという基準で、全体として平均的なレベルを比べると、どうも日本のお坊さん方はかなわないという評が多いようです。

 けれども、少なくとも、救いの目標を自分自身の覚りや救いにとどめず、自分と人々、さらに生きとし生けるものすべて(衆生・しゅじょう)と一緒に救われる・覚ることを目標にしたという点では、大乗の主張にはある種の妥当性がある、と私は評価しています。

 大乗を主張する新しい経典として、紀元1世紀前後から、まず『般若経(はんにゃきょう)』のさまざまなタイプのものが生まれてきます。

 『般若経』の一番最初のものは、八千ほどの詩句でできている『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』だろうといわれています。

 それがだんだん広げられ大きくなっていって、『十万頌』のものまで作られていきます。

 やがて長くなりすぎた『般若経』のエッセンスを最小限にまとめたものが、日本人なら誰でも知っているといってもいいほど有名な『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。

 そうした『般若経』で語られている「空(くう)」の思想は、以下の定型句とその意味が示しているように、ブッダから部派仏教までの教えを含んで超えるものだといっていいでしょう。

 「縁起だから空である」=「縁によらないで起こっているものは何もない」

 「無自性(むじしょう)だから空である」=「変わることのないそれ自身の本性をもったものは何もない」

 「無常だから空である」=「いつまでもあるものは何もない」

 「無我だから空である」=「実体として存在しているものは何もない」

 「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」

 これらのコンセプトに共通している「何もない」というニュアンスを「空」という一言でまとめ、かつ深めて捉えたのだと考えられます。

 ですから、「空」は、ありのままのほんとうの世界は「すべてがつながりあっていて、けっきょくは一つ」という面からいえば、「一」「一如」「真如」と表現することもできる事実を示しているのです。

 この「空」という言葉とちょうど逆なのが、「実体」というコンセプトです。

 西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものとの関わりなしに、変わることのないそれ自身の本性をもっていて、いつまでも存在できる」ようなものを「実体」と呼びます。

 「空」はまさにその正反対ですから、「実体がない」「無実体」あるいは「非実体」と言い換えることもできます。

 この「空」という事実を覚ることが無明を克服することであり、すべての苦を超えることになるというのです。

 「空」を覚ることは、「空」という思想を知ることとは違うことですが、まず知らないことには覚りたいという気にもなりませんから、次回から、もうすこしくわしく、でもできるだけわかりやすく「空」思想についてお話していくことにしましょう。


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ヴィパッサナー瞑想に関するQ&A

2006年01月08日 | メンタル・ヘルス

 「部派仏教」の中の「上座部・テーラヴァーダ仏教」は、今でも東南アジアの諸国に伝わって残っています。

 最近、そうしたテーラヴァーダ仏教、特にその瞑想法の代表的なものであるヴィパッサナーを日本に紹介する方が何人もおられて、実践に参加する方も増えてきています。

 私の研究所の講座でも、坐禅とヴィパッサナーの違いなどについての質問が時々ありますので、ここで参考に、昨年3月18日の中級講座でのQ&Aを再録しておきたいと思います。

 質問者:

 禅定の重要性というか必要性というのは、今日あらためてああそうなんだな、と確認してよかったと思いました。

 それで、たしかに人にも薦められるようにはなってきたな、という感じがします。

 ただ、自分自身の体験では、ヴィパッサナー瞑想に参加したとき、ひじょうに、深いというかおもしろい体験をいろいろさせていただいて、その後、坐禅をやったりヴィパッサナー瞑想をやったりと、自分で使い分けてやったりはしているんですけれども、瞑想もいろいろあるので、どれがいいのかなという疑問があります。

 いろいろ探しているとたぶん一生終わっちゃうんだろうな、ということもあるので、そのへん、「いろいろある中で坐禅がおすすめ」という理由をちょっとお聞きしてみたいです。

 岡野:

 はい。とくに最近、サングラハの中でもその周辺の方でも、ヴィパッサナーに行かれる方が多くて、みんないい体験をしてきて、「坐禅ではなかなかうまくいかないので、ヴィパッサナーのほうがいいんじゃないですか」という方がよくいらっしゃいます。

 それからたとえばヨーガの瞑想もあったり、チベット密教の瞑想もあったり、日本ではその他いろいろ、探せばできるところがありますよね。

 で、くまなく見たわけではないんですが、なるべく臨床的に公平に、かつ理論的にも妥当に、という目で見るかぎり、人間の深層意識まで浄化するということが理論としても対象としてもはっきりおさえられているのは、やっぱり大乗仏教、なかでも唯識だ、と私は評価しています。

 しかし、残念ながら唯識は理論しか伝わっていません。

 そこで、臨済宗系の坐禅をしてみると、まさにこの理論とこの禅定の方法はぴったり対応している、と私は感じてきました。

 ヴィパッサナーとヴィパッサナーの理論は、やはり切り離しがたいものがあります。

 私があえてヴィパッサナーをやらないのは、率直にいうと私はあの理論では仏教理解が不十分だと思っているからです。

 ちょっと難しいことをいうと、『清浄道論(ヴィシュッディマッガー)』という、難しい、ひじょうに部厚い、テーラヴァーダ仏教の瞑想理論の本があります。

 私は、ぜんぶを細かく読んではいませんが、概説は読んでいます。

 その範囲で『摂大乗論』などと比べながら、「ヴィシュッディマッガーでは理論的整備が不十分なんじゃないか。やはりマナ識・アーラヤ識の問題点をちゃんと捉えていないとだめだな」と思うんです。

 繰り返しますが、理論と実践は切り離せないんです。

 ヴィパッサナーに行くと、指導者の方はそういう説明をするでしょう? 唯識的な深層心理の浄化の説明はありませんよね?

 質問者:たしかにそうですね。

 岡野:

 そういう説明をしないということは、そこから「大乗の菩薩になる」という方向性も出てこないということです。

 実践できているできていないは別にして、『摂大乗論』とか大乗仏教はどこを目指しているかというと、「慈悲が出てこなければ、それはほんとうの智慧じゃない」という、教学的な押さえがひじょうにしっかりとしているんです。

 だから、原点に帰れる。

 私は、たえず原点に帰れる理論的な準備ができているという意味で、やっぱり大乗仏教、とくに唯識と坐禅というセットのほうが、中長期で見たら人格をより深く形成するだろうと推測しています。

 でもまあ最近、みなさんがあんまりヴィパッサナーでいい体験ができたといわれるので、それなら、方法論として入り口のところでみなさんに使ってもらうようにしてもいいかなという気は、ちょっとしてきてはいます。

 でも、そのときに方向づけとしてはちゃんと、「でもここから慈悲が出てこなかったら意味ないですよ」という話をしながら、というかたちです。

 つまり、私にとっては論理療法を取り入れるのと同じアプローチで、方便の一つとして、「坐禅ではなかなか行けません」という人に、ヴィパッサナーのテクニックも使ってもいいかなとは思っていますけどね。

 でも、論理療法一つでも、ちゃんとみなさんに方便として使っていただけるようにご指導できるところまで勉強するのにも、なかなか手間がかかりましたからね。

 ヴィパッサナーも自分でちゃんと実践して、場合によってはリトリートにも行って……あんまり行きたくないですけどね。(笑)

 行くと指導者の方に反発して、「あなたには指導してほしくないですよ」ってマナ識反応をしそうですから。(笑)

 (*最近、武蔵野大学の「仏教と心理学の協力」というフォーラムで、井上ヴィマラさんと会って、いろいろ話しているうちに、ヴィパッサナーやテーラヴァーダ仏教について、少し評価を変えなければならないかな、と思うようになっていますが、まだちょっと勉強を始めたばかりで、まとまっていません。)

 それから加えて言えば、それもちょっと時間がかかるからすぐにできないし、私ができるかどうかわからないんだけど、方便としては、入りやすさでいえばむしろ気功、太極拳のほうが、もっといいかなという気がしています。

 気功、太極拳は、ちゃんとした人たちは、あれは動く禅・「動禅」というふうに捉えていますし、深くいけば坐禅同様の境地に行ける可能性は十分ある方法論だと思いますし、じっと坐っていて「脚がしびれた」というよりは、「身体を動かして気が流れて元気になりました」(笑)というほうが現代人には入りやすいかな、と思いますしね。

 だから、サングラハ青森の羽矢先生は気功をやっているわけです。

 中国にも何度も行って学んで、指導者としての資格を得て、授業の合間に学生を高原に連れていって気功をやらせるという授業をやったりしておられて、その成果を聞いてみて、「ああ、なかなかいいな」と思っています。

 でも、そういうことは今言ったとおり、人に指導できるところになるまでには習得に時間がかかるので、すぐにはできませんよね。

 私は、とにかく三十何年、四十年近く坐禅でやってきているから、他のものを取り入れてこれと同じだけの質にするのは、ちょっともう間に合わないなという気がするので、「私のところに来る人は、実践の方法としては坐禅でやってください」ということです。

 で、ご自分の向き不向きがあって、「いや、ヴィパッサナーのほうがいいです」とか、「太極拳のほうがいいです」とか、「ヨーガがいいです」とかという方は、それはそれでやっていただいて、「それでは理論が満足できない」という場合は、「理論はここで勉強して、実践はそっちでやりたいという人は、それでいいですよ」というのが、サングラハのポリシーなんです。

 だからMくんも、実践法としては「坐禅ではなかなか行かないから」といって他の方法論をやってもらっても、別に私は睨みませんよ。

 「Mくん、何よそ事やってるんだ」(笑)とかは思わないから、自分に向いたのでやってもらっていいと思います。

 それからもう一つ言わせてもらうと、やはり文献も含めて禅をちゃんと吸収しないと、せっかくの日本文化の伝統を見失ってしまいます。

 ヴィパッサナーは東南アジアが本家ですから、ヴィパッサナーをやるといつも東南アジア文化に引け目を持つことになるんじゃないでしょうか。

 禅をやると、もとは中国が本家だといっても、ちゃんと残っているのは日本ですから、引け目を持つ必要がないんです。

 とにかく禅というのは、鎌倉時代から営々と日本文化のかなり中核的なものとして伝わってきています。

 しかも、日本の伝統文化のひじょうに質の高いものは、たとえば茶道でも華道でも剣道でも、○○道といって、背後に禅があるものが多いんですね。

 だから、坐禅をやりながら、禅の文献を読みながら、そういうものが日本文化の源流だということを実感するという意味では、「坐禅をはずすと日本文化のアイデンティティをちゃんとつかめないぞ」という判断ももう一つあるんですよ。

 そういうわけで、私はどうしても坐禅にプラスの意味があってこだわっているわけです。

 質問者:

 感想なんですが、こちらにご縁があるから坐禅をやっていきたいなということはあったんですが、お話を聞いて、それだけじゃなくて、そういう意味で日本人としてのご縁もすごくあるんだな、と思いました。

 岡野:

 そうなんですね。

 鈴木大拙先生が『禅と日本文化』(岩波新書)という本を書いておられます。

 ちょっと禅文化が日本文化のすべてみたいにいっていて、いいすぎのところがあると思うんですが、でも読んでみて、確かにそうだと思います。

 鎌倉から室町期にかけてできた、いわゆる「和」・「和風」といわれる文化の原点を見ると、みんな背後に禅があります。

 茶道もそうだし、水墨画もそうだし、華道も、盆栽まで――盆栽も禅の精神が背後にあるようですよ――そういうふうなものがみんなそうなんです。

 だから、禅を見失うということは日本文化の原点を見失うことになるので、それは、方法論として入りやすいとか、感情のコントロール法として効果が出るのが早いとか、気持ちがいいとかということには代えられないという思いが強くある、ということです。

 あ、今日の話はわりに説得力がありましたね。(笑)



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部派仏教のコンセプト

2006年01月07日 | メンタル・ヘルス

 ブッダは、世界の構成要素を5つに分類して「五蘊(ごうん)」と呼びました。

 まず「色(しき)」ですが、これは色や形があって目に見える「物」あるいは「物質的現象」のことで、色気や性欲のことではありません。

 「受(じゅ)」は、色=物を感受・知覚する作用、

 「想(そう)」は、想念・イメージ作用、

 「行(ぎょう)」は、意思や行動決定の作用で、「諸行無常」の「行」とは意味が違います。

 「識(しき)」は、思考・意識作用です。

 現代的にまとめると、「色」が「物」、後の4つは「心」に当たりますが、仏教では心への洞察がくわしくなっているわけです。

 さらに、部派・アビダルマ仏教では、人間を考えるのに、「十二処(じゅうにしょ)」という分類をしました。

 まず、現代風にいうと感覚器官のことを「根(こん)」といい、眼(げん)・耳(に)鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん、身体)、意(い、意識)の器官をそれぞれ「眼根」「耳根」…といいます。

 それから、物の色や形、音、香り、味、身体感覚、外的な存在という「根」が感じる対象を「境(きょう)」といって、それぞれ「眼境」「耳境」…といいます。

 「処(しょ)」というのは、現代の言葉でいえば「認識が起こる場」という意味で、根と境それぞれ六つずつあり、あわせて「十二処」になります。

 この根=器官と境=対象が、お互いに入り込みあうことによって、心の具体的な働きが起こるので、「十二入(じゅうににゅう)」ということもあります。

 その心の具体的な働き・識別作用を「識(しき)」といって、「眼識」「耳識」……「意識」といいます。

 例えば、眼という器官・「眼根」と眼の対象・「眼境」が出会い、入り込みあって、眼で何かが見えるという「眼識」が起こる、というわけです。

 「識」も六つありますから、「十二処」と足して「十八界(じゅうはっかい)」といいます。
 
 「界(かい)」とは「構成要素」「領域」というふうな意味で、『般若心経』では、「眼識」ではなく「眼界」となっていますが、おなじことです。

 部派仏教では、こういうふうに、「六根+六境+六識(六界)=十八界」で、人間の身体的な感覚器官と、それが感じとる対象と、そこで起こる心の働き・識別作用の全体を、整理・分類しています。

 そして、それらの一つ一つが、無常、無我、苦……であることを、実にていねいに洞察・観察していくという思索的な瞑想(正思惟+正定)を行なったりするのです。

 そして、人間もそれ以外の物もすべて実体ではない・無我であること――「人無我(にんむが)」と「法無我(ほうむが)」といいます――を心からわかる・覚ることを目指すのです。

 アビダルマ仏教では分類・整理がもっともっとくわしくなっているのですが、くわしくやりすぎるとかえってわからなくなるので、本授業ではこのくらいにしておきます。

 しかしともかく、こうして見てくると、ゴータマ・ブッダから部派仏教に到る仏教は、非常に理性的・哲学的であり、さらにそれにとどまらず「覚り」という霊性を目指すものであったことがはっきりおわかりいただけるのではないでしょうか。

 そういう意味で本来の仏教は、古臭い迷信(呪術的・神話的宗教)ではなく、哲学的・霊性的宗教だったのです(「仏教の6つの側面」参照)。



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部派仏教

2006年01月06日 | 心の教育
 
お正月もそろそろ終わりです。

 ネット授業を本格的に再開したいと思います。

 みなさん、また「アイデンティティ確立のための上り坂」*です。がんばってください。



 さて、釈尊が亡くなった後、大まかにいって百年後くらいに、規律や教義の解釈の違いによって、仏教の教団がまず上座部(じょうざぶ)と大衆部(だいしゅ部)と呼ばれる2つの部派に分かれてしまいます。

 それを仏教史上は「根本分裂」といっています。

 上座部(テーラーヴァーダ)というのは、仏教教団の長老たちが上座にいたことからつけられた名前で、現代まで東南アジアに伝わっている仏教はこの流れを継いでいます。

 大衆部(マハーサンギーカ)というのは、参加した人数が多かったためにこう呼ばれたものです。

 専門的にいえばいろいろ難しいことがあるようですが、大まかにいえば、よかれ悪しかれ保守的な上座部と革新的な大衆部ということいえるようです。

 仏教教団が2つに分かれる前後に、有名なアショーカ王という人が、ほぼインド全土にあたる非常に広い地域を統一しています。

 統一するには戦争をせざるをえなかったわけですが、アショーカ王は、やがて戦争すること、つまり人を殺すことの問題に非常に深く悩み反省をして、やがて仏教に帰依をします。

 それが一つの大きなきっかけになって、インド全体に仏教が広まっていくわけですが、広まっていくにしたがって、次第に先ほどいった2つの派が教義の解釈の違いによって、さらにいくつにも分裂をしていき、紀元前100年頃までに20ほど派ができたといわれています。

 先にもお話したとおり、「人を見て法を説け」ということわざがあるように、ゴータマ・ブッダは、話を聞く相手の理解力とか状況とかを見てお話をされたようです。

 ですから、まとまった体系的な説き方はしなかったし、本も書かなかったわけです。

 ところが、インドの知的なエリートたちは古代から現代に到るまで、非常に理論好きで、後の人たちが釈尊の語ったことを元に自分たちの洞察もつけ加えながら、だんだんに組織的な仏教の教学を作っていきます。

 解釈の違いによって20の部派に分かれたので、「部派仏教(ぶはぶっきょう)」と呼ばれます。

 また、その理論を「アビダルマ」というので、「アビダルマ仏教」と呼ばれることもあります。

 「アビ」というのはサンスクリット語で「何々に対して」という意味です。

 「ダルマ」は――ダルマさんのダルマはここからきています――もともとは保持するものという意味で、そこから真理とか法とか、ものごととか、いくつかの意味が出てきているのですが、ここでは「ものごと」とか「存在」という意味です。

 とにかく仏教的な「存在の分析」といえるような非常に詳細で哲学的な学説が形成されていくわけです。

 その代表的な文献としては、『阿毘達摩倶舎論(あびだつまくしゃろん)』(略して『倶舎論・くしゃろん』)があり、日本でも奈良時代から唯識と並んで仏教の基礎的な学問とされてきました。

 こうした学説は、もちろん一面では発展ともいえますが、厳密で詳細であるだけに、専門家にしかこなせないものになってきます。

 ブッダの時代から、仏教の中には出家・僧の流れと在家・一般人の流れがあります。

 アビダルマのような複雑な仏教教学は、やはり出家のいわばエリートのお坊さんにしかこなせないことになってくる。

 それから一日のうちの相当長い時間を瞑想に使うこともプロのお坊さんにしかできません。

 そうなると、在家というか、お坊さんになっていない人間は、仏教という流れでいえば、おまけで救われないことはないというか、覚れないことはないのだけれども、でも本流はやっぱり出家です。

 それが極端になると、やっぱり出家しなければ覚れないという感じにだんだんなっていく傾向があったようです。

 それに対し、紀元1世紀頃に、「出家したエリートしか覚れない・救われないというのはまちがっている。それは、迷いのこちらの岸から覚りの向こう岸へ渡るのに、ごく少数の人間しか乗せられない小さな乗り物=小乗だ。我々はみんなが乗れる大きな乗り物=大乗なのだ」と批判する勢力が興ってきます。

 6世紀から8世紀にかけて日本に伝わり、やがて定着して日本人のものになっていった仏教は、朝鮮半島、中国を経て大きく変化も発展も――見方によっては歪曲も――したかたちのものですが、大まかな分類でいうと、この「大乗仏教」に属しています。



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言葉を超えて

2006年01月05日 | メンタル・ヘルス

 リクエストがありましたので、『信心銘』の続きです。


 多言多慮、      (たごんたりょ)

 転た相応せず。    (うたたそうおうせず)

 絶言絶慮、      (ぜつごんぜつりょ)

 処として通ぜざるなし。 (ところとしてつうぜざるなし)

  意 訳

 ぺらぺらしゃべり、あれこれ考えてると

 どんどんピント外れになってしまうぞ。

 だまって、よぶんなことを考えないで、

 〔まっすぐ進めば〕どこにだって通用するんだ。


 これは、浅く読んでしまうと、「言葉じゃないよ、行動だよ」という話のようです。

 また、「不立文字(ふりゅうもんじ)」、言葉でいうことはできない、というのは禅のキャッチ・フレーズです。

 しかし、仏教の流れ全体でいえば、膨大な経典の言葉や詳細厳密な論書の言葉が積み重ねられた上で、最後の最後のところは「言葉を超えている」という話になるのであって、最初から言葉を軽視したり無視したりしたのではありません。

 学ぶべき言葉はしっかりたっぷり学んだ上で、言葉を超えたものをつかんだら、もう人生のどんなところでちゃんと生きていける、という話なのです。

 そう読むと、これは一見とても平易ですが、実はとても深い話です。

 言葉の世界から言葉を超えた世界へ、そして言葉を超えた世界からもう一度言葉の世界へ、という自由自在な往復ができる、しなやかな心を得たいものです。

 今年も、ご一緒に学びを深めて行きましょう。

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休みと仕事

2006年01月04日 | メンタル・ヘルス
 今年は、暦の具合でお正月の休みが短く、今日から仕事の方が多いのではないでしょうか。

 もしかしたら、あーあと思っている方もいるかもしれません。

 そこで参考に、『信心銘』の言葉をもう一つ。


 迷えば寂乱を生じ、 (まよえばじゃくらんをしょうじ)

 悟れば好悪なし。    (さとればこうおなし)

 一切の二辺は、    (いっさいのりょうへんは)

 浪りに自ら斟酌す。  (みだりにみずからしんしゃくす)

  超 訳

 わけがわかってないと、ゆったりと静かなのがよくて、あわただしくてさわがしいのは嫌だと思う。

 人生ってものが本当にわかれば、そんな好き嫌いなんかなくなるのさ。

 あれだこれだと対立・葛藤するのは、

 みんな自分の勝手な都合で考えるからなんだよね。


 例えば、休み・遊びの時間が自分の時間、仕事・働く時間は本当の自分の時間ではない、と対立的に考えていると、人生の大半が自分の生きている時間ではなくなってしまいます。

 それでは、有限な人生の時間をとても無駄にしてしまうことになります。

 かといって、仕事がすべてというのも、無理があり、人間として偏っているのではないでしょうか。

 休むにしても働くにしても、すべてその時その時を自分の人生の時間としてしっかり生きるというのが、シンプルで賢い生き方のようです。

 仕事が始まったら、好きだ嫌いだといっていないで、しっかり働きたいですね。

 7、8、9日はまた3連休です。

 すべて同じ1つの人生の時間、でもその時によってすることの区別はちゃんとある。

 だとしたら、ポイントはバランスにある、というシンプルな話でした。

 以上、自戒の学びでした。


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見るなら大きな夢

2006年01月03日 | メンタル・ヘルス

  『信心銘』の超訳が、わりに評判がよかったので、つい調子に乗って、もう一つ。


 眼もし睡らずんば、  (まなこもしねむらずんば)

 諸夢 自ら除く。   (しょむおのずからのぞく)

 心もし異ならずんば、  (しんもしことならずんば)

 万法一如なり。    (まんぼういちにょなり)

  超 訳

 目が寝ぼけてなけりゃ、

 つまんない夢なんか自然に見なくなるんだよ。

 心があちこちうろうろしてなけりゃ、

 すべてはありのままぜんぶ一つのコスモスなのさ。


 夢を持つことはいいことだ、とふつう考えられていますが、夢には、わけのわからない夢もあれば、つまらない夢も、くだらない夢も、下品な夢も、悪夢もあります。

 私たちは、そういう夢を持つことによって、かえって人生をよけいに複雑にして混乱させ、自分も人も悩ませるという、愚かなことをしがちです。

 もちろんいい夢を持つことはいいことなのですが、その前に、ちゃんと目を覚ましたほうがいいのではないでしょうか。

 ちゃんと見れば、世界は私の勝手な夢のためにあるのではなく、世界そのものの理と方向性に従って動いています。

 そして、その世界・コスモスと私たちは、実は一体なのでした。

 夢を見るなら、ちっぽけな自分ひとりの勝手な夢ではなく、私たち=コスモスすべての大きな夢にしましょう。

 というのが、私の初夢の話でした。


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単純明快な生き方への招待

2006年01月02日 | メンタル・ヘルス

 正月二日の事始め・仕事始めは、中級講座の『信心銘』のテキスト作成でした。

 作成しながら読み直していると、改めて実にきっぱりさっぱりとした文章で、胸がすく思いでした。

 冒頭のところだけ、私の超訳で紹介しましょう。


 至道無難、     (しどうむなん)
 唯だ揀択を嫌う。  (ただけんじゃくをきろう)
 但だ憎愛莫くんば、 (ただぞうあいなくんば)
 洞然として明白なり。(とうねんとしてめいばくなり)

  超 訳

 究極の生き方は、むずかしくなんかないんだよ、

 ああだこうだと文句をいわないだけのことさ。

 好きだ嫌いだといいさえしなければ、

 人生はきれいさっぱり単純明快なんだからね。


 ちょっと乱暴な超訳ですが、雰囲気は伝わるのではないでしょうか?

 いいの悪いの、好きだ嫌いだ、損だ得だと、文句をいっていないで、できることをする、できるだけのことをする、という生き方をすれば、人生は単純明快、実に爽やか、というわけですね。

 こういうふうに、禅は、爽やかに楽しく生きるための道筋を教えてくれます。

 みなさんも、文章でああだこうだと知識として学んでいるだけでなく、今年は、一緒に坐禅もしてみませんか?

 私にできるかな?……とためらっていないで、

 やれば、できる! やりたければ、できる!


*詳しくはまたお知らせしますが、2月17日12時ころから5時ころまで、小田急線参宮橋駅近くの不二禅堂で、まったくの初心の方のための坐禅入門講座を開催します。ぜひ、お出かけください。


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