奥入瀬はこんなに美しい4

2006年05月13日 | 心の教育








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成所作智(じょうしょさち):最高に開いた感性

2006年05月11日 | メンタル・ヘルス





 無意識と意識が変容すると、それに対応して五感まで変容する、といわれています。

 実体としての自分にこだわっている間は、見るもの聞くものすべてを自分の好みや都合によって判断します。

 そして、自分の好きなものだけを見たり聞いたりしようとします。

 自分の嫌いなものは見たり聞いたりしたくないので、意識的、無意識的に避けようとします。

 しかしまた、嫌いでも自分の都合に関係していることは嫌がりながらも気になってしまいます。

 さらに、自分に関係がないと思っている――実は関心がないだけなのですが――ものに対しては、まったく冷淡、無視、知らんふりです。

 コスモスのありのままを感じるというのとはまるで違いますね。

 そういう、コスモスにあるものを自分の都合で選別して感じているというのは、ふつうの人のごくふつうの感性のあり方です。

 どこがいけないというのでしょうか? ずっと学んできた方は、もうおわかりですね。

 コスモスとそのなかのすべてのものは一体です。

 しかしもし、真っ白なのっぺらぼうのような、真っ暗な深淵のような、どろどろの混沌のような一体だったら、すべてのものの区別はなく、したがって関係というものものなかったでしょう。

 例えば私一人だけだったら、独り言・モノローグしかできません。

 あなたと私が区別という意味で別人であるからこそ、関わり・つながることができ、対話・ダイアローグ・コミュニケーションができるのですね。

 コスモスもただ一つであるままだったら、そこにはどんな関係もコミュニケーションもなかったでしょう。

 それは、想像しただけでも退屈そのものの世界です。

 しかしとても楽しく幸いなことに、コスモスは区別とつながりとコミュニケーションに満ちたところです。

 コスモス全体とその中に生きている私たちの関係で考えると、コスモスはいつも私たちに実にさまざまな豊かなメッセージを送っているということができます。

 コスモスの一部としての五感は、本来はそうしたコスモスのメッセージの受容器官なのではないでしょうか。

 ところが、私たちは自分の関心によってコスモスのメッセージをきわめて限定して選択的にしか受け容れていないのです。

 しかもしばしば歪めて受容してしまいます。

 これはまず、コスモスのありのままを感受していないという意味でまちがいですね。

 さらに、それはコスモスの豊かなメッセージを聴いていないという意味で、とても貧しい、つまらないことです。

 つまり、そこがいけないのですね。

 ところが、私たちの感性はコスモスの豊かで美しいメッセージを聴くことのできる感性に変容しうるというのです。

 見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、体感することのすべてにおいて、もっとも自然ななされるべきことを成し遂げることのできる智慧に変わるのです。

 「作されるべき所のことを成す智慧」という意味で「成所作智(じょうしょさち)」と呼ばれています。

 「感性が開く」とか「豊かな感受性」という言葉がありますが、成所作智は世界で最高に開いた感性、もっとも豊かな感性のあり方だ、といってもいいと思います。

 もちろん五感が感じるべきもっとも自然なことを感じるようになれば、五体もなすべきことを自然に成し遂げるようになります。

 そういう豊かに開いて生き生きとした五感・五体で感じ、生きる世界は、どんなに美しく感動的でしょうか。

 前回も言いましたが、これは片鱗を体験しただけでもすばらしい! 完璧になったら、この上ない生きる喜びを感じることができるにちがいありません。

 心豊かに生きたいと思われる方、成所作智――を含む四智――を目指しましょう。



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妙観察智(みようかんざっち)――すばらしい洞察の心

2006年05月10日 | メンタル・ヘルス

 心が奥底――奥・マナ識と底・アーラヤ識――まで変容してしまえば、当然、意識も徹底的に変容します。

 いつでも自分を含めた宇宙全体が一体であるけれどもその中のものそれぞれにはくっきりと区分があること、区分はあるけれども果てしなくつながっていて結局は一体であるというすばらしい事実に、いつも自然に目覚めている、いつも洞察ができているという心の状態です。

 すばらしい事実を洞察・観察する智慧という意味で「妙観察智(みょうかんざっち)」と呼ばれています。

 これは、私たちのような頭・意識で学んでわかってそう思う、あるいは思うようにしているという状態とは質的にまったくちがいます。

 前にお話しした譬えで言えば、徹底的にガット(胆)に収まっているのでたえずハートに実感がありくっきり明晰に頭も含めた全身心で目覚めているといった感じでしょうか。

 自分と人、自分と物、自分と宇宙が一体でありながら区別できるそれぞれのかたちをもって存在していることに気づいているのを「真実性から依他性、一つからつながり」というのでしたね。

 「分別性から依他性、ばらばらからつながり」という方向でものを見ると、考えること、感じること、することすべて煩悩になっていくのでした。

 もっともよくわかる人間関係のことを考えて見ましょう。

 個々人がばらばらに分離して存在していて、それからつながり・関係を作っていくのだと思っていると、まず自分にとっていいつながりがあると、それに過剰に愛着・執着して愛別離苦に苦しむことになります。

 また、自分にとっていいつながりがないと孤独に悩まされます。

 それから、悪い関係にもこだわりを感じて怨憎会苦に苦しみ、怒ったり、恨んだり、嫉んだり、傷つけたり傷つけられたり……します。

 愛別離苦や怨憎会苦で心が乱れるのが嫌で、人に関わるまいと引きこもると、これまた孤独に苦しむことになります。

 しかし、もともとすべてはつながって一つということに深く気づいていると、孤独に悩まされようはないのです。

 そもそも純粋な孤独などというものは、この一つの宇宙にはありえないからです。

 たとえ現象的には人から離れて一人でいても、本質的にはすべての人やものといつもつながっているというのが深い事実なのです。

 かたちの上では別離があるとしても、深い底のところ、全体としては宇宙が分離してしまうということはありえません。

 すべてのものがおなじ宇宙の部分としていつも一緒にいるのです。

 心の底からそう思えれば、人を深く愛しても別れを怖れたり、過剰に悲しんだりすることはありません(適度に悲しむことはもちろんあるのですが)。

 同じ宇宙の一部でありながら、それぞれのかたちに分かれているからこそ出会えるということを、許された無常の時間の範囲で爽やかに喜び楽しむだけです。

 人と対立し、不利益をこうむっても、過剰に憎んだり、傷つけよう、殺そうと思ったりすることもありません(妥当な正義感はしっかりとあるのですが)。

 もともと一つであり、そしてダイナミックに変化していく宇宙の中では、あわてて殺さなくても、かたちの上ではすべての人が必ず死んでいくことを知っていますから、過剰に恨むことはないのです。

 もちろん、せっかくそれぞれ宇宙の一部でありながら愚かさのために無駄な対立をしてしまっていることを非常に残念に思う気持ちはあるのですが。

 ……妙観察智の具体的な現われはきわめて多様ですから、とても一度のブログ記事に書きつくすことはできません。

 ただ、人生・この世のあらゆることについて、それまでとはまったく違ったすばらしいものの見方ができるようになる(らしい)ということだけ、ここでは学んでいただければ十分でしょう。


 私も、かなり長くそれなりに修行を続けてきたおかげで、時には妙観察智の働きの片鱗を体験することがあります。

 それは片鱗を体験しただけでも、いわば世界がきらきらと輝いているように見えてきますから、体験が完璧になったら、自分と世界はどんなに輝かしく美しいものに見えてくるのでしょう。

 八識から四智への変容が進んでいくことをとても楽しみにして、努力を続けているところです。

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奥入瀬はこんなに美しい3

2006年05月09日 | 生きる意味









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平等性智(びょうどうしょうち):一体性に目覚めている無意識

2006年05月08日 | メンタル・ヘルス


                   山中湖の白鳥



 アーラヤ識に溜まっている煩悩を素材として構成された無意識の心理システム・マナ識は、素材がすべて善と覚りの種子に入れ替わってしまうと、当然ながらまったく別の心理システムに変容します。

 すべてのものと自分との一体性=平等性にたえず目覚めているという、おどろくべき無意識システム・「平等性智」になるのです。

 それまでさまざまなもの(者・物)と出会った時、「なぜか」「ふと」「どうしても」自我中心的に反応していた――〈マナ識反応〉!――のが、自然に、ありのままに、まったく無理なく、自利利他的に対応できるようになる、というのです。

 心の底が変容すると心の奥にある実体的な自我への執着も解きほぐされ、解放され、やわらかでのびやかで自然な、自他の調和を図ることのできる心に変容するわけです。

 それに関して、どこかですでにお話ししたかもしれませんが、きわめて重要なので繰り返しておくと、自他の分離意識があるままで「自分を他者のために犠牲にする」というのと、自他の一体感があるために「自利と利他が調和するよう行動できる」というのは、似て非なるものだと思います。

 「自己を犠牲にする」とか「自己を捨てる」というのは、その前提に「自己」が自分の――たとえ理想であったとしても――好き勝手にしていい所有物であるかのような錯覚があるのではないでしょうか。

 犠牲にしたり捨てたりする以前に、自己は自己によって成り立っているものでもなければ、自己の所有物でもない、という事実があります

 あえていえば、自己はその一部であるという意味で宇宙の所有物だといってもいいでしょう。

 ですから、平等性智が開けて宇宙の働きに沿って生きるようになった時、場合によって「他者のために犠牲になっている」と見える行為をすることもあるでしょう。

 しかし、ある場合は「自由自在、自分の好きなように生きている」と見えるような振る舞いをすることもあります。

 それは、その時その時の宇宙の働きの方向に自然に従っているだけのことなのです。

 そういう心の奥深いところから湧いてくる自然な振る舞いや感情の源泉が「平等性智」と呼ばれているのだ、と言い換えてもいいと思います。

 もちろんそれは、もっとも典型的なケースでは、他者の苦しみを自然に自分の苦しみと感じるために誰に頼まれたわけでもなく自分がやりたいから他者のために働く、いわゆる「慈悲」となって現われます。

 しかし平等性智の開けた人にとって、苦しみや不幸も喜びや幸福もすべて宇宙のことですから、絶対的な対立と捉えてどちらかでなければならないとは考えないのです。

 すべては「あるがまま」でいいと感じています。

 しかし、無常なる宇宙では固定して変わらないという意味での「あるがまま」はありませんから、「なるがまま」と言い換えてもいいでしょう。

 宇宙の「なるがまま」が心の奥の「なしたい」という無意識の願望と一致しているのです。

 そこで、宇宙のなそうとしていることが自分のしたいこと、自分のしたいことが宇宙のなそうとしていること、というふうに自然に自由自在に生きるわけです。

 ですから時には、苦しんでいる衆生を町や村に置き去りにして、一人清々しい野や山に隠れて「智慧」つまり宇宙との一体感の楽しみにふけることもあります。

 あるいは高い山から清らかな水が流れ下って、低地の村々を潤すように、智慧の楽しみを人々に伝えようとすることもあります。

 しかしいずれにせよ、悪い意味での倫理的に硬直して、「慈悲を行わなければならない」とか「瞑想して智慧を得なければならない」とか「得た智慧を衆生に伝えなければならない」というふうにはならないのです。

 ……と、「講釈師――講談を語る人のことです――見てきたようなウソをいい」ではありませんが、知ったふうなことを言いました。

 これは、私の若干の禅と唯識の学びからした、「平等性智」とはそういうことらしい、という推測的説明にすぎません。

 もしかしたら、ちょっと大きめの池を見ただけなのに、海の話をしているのかもしれませんから、ご注意ください。

 しかしそれにしても、完璧に「平等性智が開けた」という境地には憧れますね。



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大円鏡智=宇宙的無意識(コズミック・アンコンシャス)

2006年05月07日 | 心の教育

 禅の標語に「不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)」、覚りは文字・言葉にしない、できない、直接心から心に伝えられるものである、というのがあります。

 そして禅には独特のわかりにくいレトリック・表現方法があります。

 そのため、私も、かつて禅の修行を始めた頃、「覚りとは曰く言い難いもの」であると思っていました。

 しかし唯識を学ぶと、覚りは確かに最終的には自分自身で体験するほかないものですが、ぎりぎりのところまでは言葉で表現-説明できるものであることがわかりました。

 といっても、もちろん説明は説明であって、それそのものではありません。

 いくら説明がわかっても、体験することの代わりにはならないのです。

 それは、「健康とはこういう状態です」という説明がいくらわかっても健康になれるわけではないのと同じです。

 しかし、説明がわかると何とか病気を治してそういう健康な状態になりたいという気持ちになります。

 覚りの説明も同じように、煩悩という心の病気を治して究極の健康な心になりたいという気持ちを起こしてもらうための手立て・方便なのです。

 というわけで、あくまでも説明なのですが、説明していきましょう。

 アーラヤ識には、すべてのものをばらばらに見てしまうという生まれつきの傾向があり、また生まれてから言葉によって教え込まれた分別知がしっかりと溜まっています。

 さらに、毎日の言葉を使って営まれる生活の体験がさらにまた分別知として集積されていきます。

 それが、マナ識-意識-マナ識―アーラヤ識……と悪循環していきます。

 ですから、それだけだと、人間は一生分別知の悪循環から解放されることはないでしょう。

 しかし、ほんとうはすべてのものがつながっており、結局は1つであり、比較するものもないほど徹底的に1つなので空・ゼロという表現さえできるという、真理の言葉を聞いて学ぶと、それもしっかりと溜まっていきます。

 さらにただ聞くだけではなく、自分自身で思い出し、よく考え、納得するという作業を繰り返していくと、そのカルマも種子となって溜まります。

 それに加えて、言葉を超えて世界を体験する方法としての禅定を実践すると、その体験もまた覚りの種子としてアーラヤ識に溜まっていきます。

 「熏習」です!

 この熏習が、在庫総入れ替え的な段階にまで到達すると、鏡がものの姿をそのままに映し出すように、大宇宙の真理をそのままに映し出す完璧な鏡のような心・大円鏡智に変わるのでしたね。

 宇宙と私の一体感が心の底まで徹底するのです。

 鈴木大拙は、それを「Cosmic unconscious, 宇宙的無意識」と表現しています。

 なんだか、とてつもなくすばらしいもののようですね。

 この話を聞いた時、私は曰く言い難い「覚り」以上に、そういう覚りを得たいという強い憧れを感じたものですが、みなさんはいかがでしょう?

 そして、アーラヤ識が大円鏡智・宇宙的無意識に大転換を遂げるとそれに対応してマナ識も平等性智に転換するのですが、長くなるので、その説明は次回にしたいと思います。


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2006年05月06日 | 持続可能な社会

  政治家を目指す女子学生への公開書簡
  

Oさん、しばらく連絡をしていませんでしたが、元気にしていますか。連休ももう終わりですね。どう過ごしましたか。

 約束した、私の知っている政治家に紹介するという件を果たしていないこと、忘れたわけではありません。ずっと心にかかっています。

 しかし、今すぐあなたを政治家に紹介することに意味が感じられなくて気乗りがせず、忙しさもあってそのままにしていました。本当に失礼しました。

 このまま約束を破ったかたちのままうやむやで終わらせるのはよくないな、なぜ気乗りがしないのかをお伝えしておいたほうがいいなと思い、手紙を書いています。しかも、これは単に個人的な問題ではない部分がありますので、あえてブログ公開のかたちにさせていただきました。

 あなたの「政治家になって世の中をよくしたい」という気持ちは出発点としてとても大切だと思うのですが、それだけにその後の方向性がもっと大切だと思うのです。

 何を目指して政治家になるのか、それを実現するにはどういう条件が必要なのか、それが明確でないと、政治家になれたとしても、それ自体が自己目的化してしまい、いつの間にか目指していたものと違う結果を生み出してしまう、というのはこれまでの理想や善意に燃えて政治家になったはずの人たちがあまりにもしばしば陥った落とし穴です

 その最悪の例の1つが、暴力によるロシア革命と成功(?)した結果としてのスターリズムです。ロシアの共産主義革命は、意図としてはすべての人民の解放と幸福という善意だったのですが、結果は恐るべき専制と抑圧だった、と結論づけるほかないようです(その他の国でもほとんどそうだったのではないでしょうか)。

 学生時代にそういう歴史的事実を知って以来、「では、どうしたら、暴力によらない、スターリニズムに陥らない、社会の変革が可能になるか。そもそもどういう社会が望ましい『いい社会』なのか。それを実現するための必要・十分条件は何か」ということを探究し続けてきました。

 私は、60年代末の学生時代以来、一部政治も含め実にさまざまな運動に関わってきましたが、ずっと失望してきました。運動家たちはみないちおう善意ではあるのですが、それは唯識でいうマナ識的なこだわりをほとんど自覚していない善意だと私に見えました。

 そのため、善意で出発してもその善意とは違った結果を生み出すということが、あまりにも頻繁だったのです。

 そこで、自分自身の善意を自己絶対化することなく心の奥のマナ識的こだわりに少なくともはっきり気づいていること、そしてできるだけ浄化の作業に取り組んでいることが、善意の実現のための決定的な必要――十分ではないが――条件だと考え、そのことに40年近くそうとう集中して取り組んできました。それが、私のこれまでの主な仕事(著作等)です。

 しかしそれと並行して、「どういう社会がいい社会なのか」ということも考え続けてきました。

 そこではっきり認識したことは、どういう社会がいいかということに先立って、そもそも「社会そのものがそのベースである自然環境なしには成り立ち得ない」というきわめてシンプルな事実です。

 いい社会を創るためには、大前提としていい自然環境が持続していることが必須なのです。

 ところが、日本を含むいわゆる先進工業国の大半は、そのシンプルな事実の厳密な認識が不足したまま営まれている、と私には見えます(認識がまったくないわけではなく、日本の各政党もいちおう政策綱領の一部に取り入れてはいるようですが、優先順位の位置づけが不適切だと思います)。

 そこで、自然と調和した新しい文明(文化や政治・経済システム)を構想する必要があると考え、ある段階でまとまったヴィジョンを「自然成長型文明に向けて」という文章にまとめました(まだでしたら、ぜひ読んでみてください)。

 しかし、そこで考えた到達すべき目標と日本の現状のあまりの隔たりに、具体的にはどうすればいいのか、考え込んでしまいました。

 そこで、とりあえずまずこうした認識をできるだけたくさんの人に伝え共有してもらうことから始めようということで、研究所を開設し、大学にも行くことにしたのです。

 そこで目標と現実の距離を埋めることのできるリーダーを育てたいと思ったからです。そして、もちろんさまざまな領域でのリーダーが必要なのですが、この大きな距離を埋めるには、特に強力な政治的リーダーシップが必要だと考えてきました。

 しかし70年代の新左翼の影響の強かった学生運動の敗北―終結以来、日本の善意ある市民の多くは「政治アレルギー」に罹ってしまっていて、理想・善意に燃えて政治を志す若者がほとんど見当たらなくなっているようです。私の見るかぎり、いても、先に言ったような問題には気づいていないようです(これが私が知らないだけの誤解であればうれしいのですが)。

 そこに、私の授業を受けたあなたが「政治家になりたいです」と言って来てくれたのですから、もう「待ってました。ようやくこういう若者が出てきたか」という感じで、うれしかったのです。

 さらにそれに加えて、新学期始まって早々、まるで共時性・シンクロニシティのごとく、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』、著者の小澤先生との出会いがありました

 私にとって、小澤先生の報告しているスウェーデンの方向性――「緑の福祉国家へ」――は、日本などのような「高度産業型文明」という現状から未来のあるべき「自然成長型文明」へ向かう、実現可能な、それどころか実現しつつあるプロセスに見えています。

 この件に関して、ブログの「緑の福祉社会・シンポジウム企画」の記事に書いたとおり、小澤先生と私の間には3つの点で大きな合意ができています(これももしまだでしたら、ぜひ読んでください)。

 私としては、そういうことを学んでもらうことのほうがまず必要で、政治家に関わり、実際に政治家になっていくのはその後のほうがいいと思っているのです。

 でないと、「善意が悪い結果をもたらす」というこれまでの悪い例にまたしても陥るのではないかと危惧します。というより、陥る危険がきわめて高いとシミュレーションをします。

 そういうわけで、政治家に紹介するという約束は、当面、申し訳ないのですが破棄させてください。

 そして、よかったら「緑の福祉国家」に向けて、遠回りのように見えても結局はいちばん着実だと私が思っている活動に参加してもらえると、とてもうれしいです。

 返事は公開でも非公開でも、してもしなくても、かまいません。ともかく、これが最近ご無沙汰のお詫びです。

 では、よい学び、世の中をよくしたいという志、ぜひ持続してください。



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覚りとは何か:4つの智慧

2006年05月05日 | 心の教育



 唯識は、私たち人間はふつうの人(凡夫)はみんな、心の表面から奥底まで、多かれ少なかれ煩悩で汚れていると指摘していました。

 いわれてみると、私の場合すべて当たっていて、自己弁護の余地がありません。

 しかし幸い、唯識はさらに、私たちが煩悩だらけであることは、煩悩を蓄えているアーラヤ識を持っていることであり、アーラヤ識は善悪中性のいわば種子を蓄える蔵のようなもので、そこに善と覚りの種子を蓄え直すことができるということでもある、と人間の根本的な変容の可能性を語っています。

 倉庫と在庫品の譬えを思い出してください。

 不良在庫ばかりの倉庫があるとして、悪いのは在庫であって倉庫ではありません。

 倉庫はそのままで、不良在庫を優良在庫に入れ替えることができます。

 在庫が違えば、同じ倉庫でありながら果たす機能はまったく違ってきます。

 まったく同じ倉庫が、不良在庫を出庫するか、優良在庫を出庫するかは、在庫しだいです。

 さて、では、倉庫の在庫総入れ替えができて、すべて優良在庫になったとしましょう。

 アーラヤ識に、善と覚りの種子ばかり溜まったらどうなるかということですね。

 アーラヤ識は、いわばコスモスからの大量注文にまったく何の手落ちもなく完璧に対応して、すばらしい在庫を出せるいわば宝庫に変わります。

 そういうふうに機能がまったく変わった状態を「大円鏡智(だいえんきょうち)」といいます。

 大きな宇宙の真理をありのままに映し出す澄み切った鏡、というふうな意味です。

 宇宙の真理の種子によって徹底的に浄化されると、マナ識はすべてのものの一体性・平等性に心の奥深く気づいているという「平等性智(びょうどうしょうち)」へと大転換を遂げます。

 徹底的に浄化された大円鏡智と平等性智によって意識も徹底的に浄化されて変容し、世界が一体でありつながりあっていながらそれぞれの区別できる姿はある・それぞれの区別できる姿はあるけれどもどこまでもつながっていて結局は一つであることにいつも目覚めているすばらしい観察の智慧、「妙観察智(みょうかんざっち)」に転換します。

 浄化された無意識と意識によって機能する五感は、その時々にもっともふさわしいものを見、聞き、嗅ぎ、味わい、体感する智慧、作されるべき所のことを成し遂げる智慧、「成所作智(じょうしょさち)」に転換します。

 八識が大転換して4つの智慧、「四智(しち)」になるのです。

 そのことを「八識が転じて智慧が得られる」という意味で「転識得智(てんじきとくち)」といいます。

 人間は確かに煩悩まみれであるが、しかしやりようによっては覚ることができる、というのが唯識―仏教のメッセージです。

 自分自身の現状を見ると、とてもそんなことは不可能に思えるかもしれません(私もそういう気がしました)。

 しかし、もちろん突然ではないけれども、手順を踏んで段階を追っていけば、次第次第に覚り・四智の世界に近づけるのが人間の本性である、というのです。

 納得するかどうか、手順を踏む気になるかどうかはみなさんのまったくの選択の自由ですが、聞いてみるだけの価値はあるのではないかと思います。



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愛するもののための持続可能な社会

2006年05月04日 | 持続可能な社会




 約1週間、娘夫婦と1歳10ヵ月の孫娘と過ごしました。

 楽しさとかなりの疲れの入り混じった濃い時間でした。

 もっと体力と気力がほしい!

 孫娘は、日進月歩の成長で、前回会った時は初めて「じーじ」「ばーば」と呼んでくれたのですが、今回はこれまた初めてかたことで「じーじ、だいすき」「ばーば、だいすき」と言ってくれました。

 期待していたのですが、期待以上の感動でした。

 彼女は、パパとママとじーじとばーばとみんないるのが好きで、誰に言われたのでもなく「みんなだいすき」と言っていました。

 愛情深くて元気でストレートなとても可愛い子です。

 これからこの子が生きる世界がひどいことにならないように、じーじとしては最善の努力をしようと改めて思ったことでした。

 ばーばも「ほんとうにそうね」と共感と協力の意思を再表明してくれました。

 データを読めばはっきりしているように、時代は特に環境に関してこのままではひどいことになっていくことはほぼ確実です。

 もう「うちの子だけよければ」という発想では「うちの子」もよくなれない時代になっていると思います。

 美辞麗句ではなく本当に「持続可能な社会」を構想し構築することは、大きなスケールのヴィジョンの話であるだけではなく、それなしにはもう愛するものの未来の幸福を保証してあげることもできない、身近で切実な問題になっているのだと思います。

 そういう意味で、今のピンチは持続可能な社会を創出するためのチャンスに変えることもできるのではないでしょうか。

 愛するものをもっているみなさん、課題の大きさに、引いたり、ひるんだり、あきらめたりしないようにしましょう。

 彼ら、彼女らの「いいご先祖さま」になれるよう、精一杯の努力をしていきましょう。



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煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい

2006年05月02日 | メンタル・ヘルス




 振り返ってみると、1ヵ月以上、煩悩の話ばかりしてきました。

 ネット学生のみなさん、逃げ出したりしないで、ほんとうによく付き合ってくださいましたね。

 みなさんの忍耐力、持続力、探究心、向上心はすばらしいと思います。高く評価させていただきます。

 これからいよいよ、「でも、治る」という話に移っていきますので、気持ちが明るくなることでしょう。

 まず、そのスタートとして、煩悩の悪循環の構造を思い出し、ちょうどその逆に善や覚りの種子を好循環させれば覚りに近づける、というポイントについて復習しておきましょう。

 学んできたように、まずアーラヤ識は善悪どちらでもないのですが、そこに煩悩の種子が溜まっていて、それがマナ識を発生させます。

 マナ識は必ず4つの根本煩悩、我癡・我見・我慢・我愛を伴って発生します。

 そこから意識上の根本煩悩が発生し、さらに随煩悩が発生するのでした。

 そして意識上の根本煩悩や随煩悩は種子として、マナ識をいっそう汚染しながらアーラヤ識に溜まっていきます。

 そして種子はやがて芽を吹いて、またマナ識を汚染しながら意識上に発生し、それがまた種子となって、マナ識-アーラヤ識へ……と悪循環を続けるのでした。

 しかし幸いなことに、意識はまさに意識的になれば善や覚りの行動・業・カルマを起こすことができるのでした。

 (覚りをもらたす行動つまり修行については、もっとも肝腎なことですから、後で詳しくふれていきます。)

 意識的に起こした善と覚りのカルマは、種子となってマナ識を浄化しながらアーラヤ識に溜まり、溜まった種子はマナ識を浄化しながら意識にのぼってきて善と覚りのカルマを起こし……と好循環します。

 ですから、原理はきわめてシンプル、心を煩悩から覚りへと変化させるには、煩悩の種子の悪循環を善と覚りの種子の好循環へと変換させればいい、ということです。

 といっても、最初は悪循環の力のほうが強くて、好循環はなかなかうまくいかず、しょっちゅう逆流するというか元に戻ってしまうのですが、辛抱強く続けていると、力が拮抗してきて、やがて好循環のほうが強くなって、逆流することが少なくなり、最終的には一方的な好循環になっていく、と言われています。

 つまり、長い長い間かかって慢性化した病気は短期間で一度には治らず、行きつ戻りつ、しばしばぶり返すけれども、辛抱強く治療を続けていると、徐々によくなっていくというのに似ています。

 これは、「辛抱強い努力」というふうなことが嫌いな人には、あまりいいニュースではないかもしれませんが、でも、これは「治る」というニュースなのですから、まちがいなくいいニュースだと思うのですが、どうお感じですか?


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奥入瀬はこんなに美しい2

2006年05月01日 | 生きる意味










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