危機管理意識をもつ必要

2006年10月11日 | 持続可能な社会

 北朝鮮が核実験を強行したようです。

 それをめぐって、今朝、TVの国会中継では、同じ自民党でありながら枡添氏が安倍総理他、政府首脳にそうとう厳しい質問をしていました。

 それを見ながら改めて感じたことは、日本政府そして日本人はこれまであまりにも局地的な平和と経済的な繁栄に慣れてきて、軍事、外交、天災、資源などなどについて「危機管理意識」が驚くほど希薄で、その結果、「危機管理体制」がそうとうに不十分であり、かつ「危機への対応の速度」が非常に遅いのではないか、ということでした。

 かつてイザヤ・ベンダサン=山本七平氏が、「日本人は安全と水はタダだと思っている」と指摘していました。

 最近、ミネラルウォーターを買うことには慣れましたが、安全に関しては、依然としてそういうところが強く残っているのでしょう。

 当面、軍事にまで関わる外交的な危機管理体制が問われているわけですが、これほど緊急を要する事態であるにも関わらずそれに対する対応の遅さを見ていると、ましてもう少し時間のスケールの長い環境の危機への認識-反応-対策が鈍いのは、ある意味当然かもしれない、と妙に納得してしまいました。

 しかしそんなことでは国民はとても困るのですから、「安全のためには十分な先行投資をして予防措置を講ずる必要がある」という当たり前のことを十分自覚している指導者のいる国に早くしたいものです。

 そのためには、まず私たち国民がしっかりとした危機管理意識をもつ必要があるでしょう。

 といっても一市民の現状では、北朝鮮の核に関しては、なんとしても使われないように祈ることしかできないのがもどかしくてなりません。



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スウェーデン人

2006年10月10日 | 生きる意味

 イリス・ヘルリッツ『スウェーデン人 我々は、いかに、また、なぜ』(新評論)という本を読み終えました。

 帯の広告文に「スウェーデン理解のための決定版!!」とありました。

 ちょっと広告コピーとしての誇張は感じましたが、かなり参考になったことは確かです。

 「緑の福祉国家」という理念のベースになっている自立と連帯の精神、自然への深い思いなどが、どんな歴史的プロセスで形成されて来たのか、これまで読んできた文献と合わせて、かなりわかってきたという感じがしています。

 今日は大学とサングラハの講座で1日外なので、携帯からです。

 また改めて、もう少し詳しく紹介するつもりです。



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「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」特集号

2006年10月08日 | 持続可能な社会






 もうほとんど台風のような天気の後、昨日今日と晴天に恵まれています。

 特に今日は、雲一つない青空です。

 今日はメンバーが藤沢のミーティングルームに集まり、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」の発題を特集した『サングラハ』第89号の発送を行ないます。

 出来上がって昨日手元に届いた雑誌は、シンプルで爽やかな表紙、コンパクトできわめて充実した論文と、すばらしい出来で、とても喜んでいます。

 このパンフレットはきっと、静かなしかし確実な影響を広げていくにちがいないと期待しています。

 大井玄先生の「地球温暖化と倫理意識」、小澤徳太郎先生の「三〇年前に行動を起こしていたら――科学と政治、そして、チェック・システムと」、西岡秀三先生の「持続可能な社会からのバックキャスティング――試金石となる低炭素社会の実現」、どれをとっても今最高の論考です。私の「『持続可能な社会』の実現に必要・十分な条件とは何か」は、すでにブログ公開済みの文章の改訂版ですが、これまでの環境論に欠けていたところを補ったものと自負しています。


黒岩重吾の小説:天風の彩王 藤原不比等

2006年10月06日 | 歴史教育
 大学の後期の授業では、ゴータマ・ブッダから大乗仏教そして唯識と、仏教の話をします。

 少し前に「無自性(むじしょう)」という言葉の説明をしました。

 「自性」とは、「それ自体の変わることのない本性」というふうな意味です。

 私たちは、私自身の変わることのない本性というのがあると思い込んでいるけれど、よく考えて見るとそれは変わるんですよ、という話をします。

 例えば、私は私を好きな人にとっては「いい人」という性質があるように見える。ところが私をきらいな人にとっては「いやなヤツ」という性質があると見える。

 私の性質は「いい」のか「いやな」のか、その人と私の関係性(縁起)によって変わって見えるのです。

 また、最初は「いい人」と思っていたのが、付き合っているうちに「いやなヤツ」に思えてきたり、その逆もあったりで、時間性でも変化します(無常)。

 他人にとってだけではなく、その時の気分で、自分自身でも自分の性質は「すばらしい」と思えたり、「だめ」に思えたりします。

 そして、だめであっても努力しているとかなりよくなったり、すごくすばらしくなったりもすることができます。変化つまり成長するんですね。

 それはともかく、最近、ちょっとスウェーデン漬けで脳味噌までスウェーデン臭くなりそうなので、電車の中での読み物はちょっと味を変えて、黒岩重吾『天風の彩王 藤原不比等』(上下、講談社文庫)を読みました。

 私が、黒岩重吾のものを読むと言ったら、意外そうな顔をする方がいます。

 何しろ黒岩作品の基本テーマは権力欲や財産欲や性欲でドロドロしているのが人間だということのようですから、「爽やかに生きたい」をモットーとしている私には合わないと思っていただけるようです。

 これは、ちょっと善意の誤解というところもありますが、実のところ私も黒岩のテーマが特に好きなわけではないので、現代ものはほとんど読んだことがありません。

 そういうテーマで読むのならドストエフスキーです。

 しかし、確かに人間にはそういうところも強くあると思うことと、古代史の小説が他にはあまりないので、日本精神史を考えるうえで古代のイメージを描く1つの手がかりとして読んでいるわけです。

 『天風の彩王』を読み終わってみて、私の不比等のイメージと黒岩のイメージはまるでといっていいくらい違うなあ、と思いました。

 それは、天智天皇、天武天皇などなどについてもすべて同じです(聖徳太子だけはいくらか近いところもありましたが)。

 そして仏教、とりわけ唯識を学んでいるので、どちらかが絶対に正しいとは考えません。

 すべてのものは「無自性」なので、「唯識(ただ心のあり方しだい)」でまるで違って見えたりするのが当たり前だと思うのです。

 『日本書紀』や『続日本紀』などを読む場合も、私はそこに古代のリーダーたちの理想を読み取ることができるのではないかと思って読むので、理想が読めてきます。

 しかし、「人間なんてそんなものじゃない。理想なんてウソだ。本心は権力欲や財産欲や性欲ばっかりなんだ」と思って読むと、そうも読めるのです。

 私は、どちらが正しいかということより――それは絶対的には決定できないと思いますし――どちらが自分(たち)が生きるのに勇気づけになるかということのほうを大切にしたいと思っています。

 しかし、とはいえ、黒岩の古代史作品は今まで読んだものはすべてそれなりに面白く読めました。

 ぜひにとは言いませんが、多かれ少なかれ権力欲、財産欲、性欲について身に覚えのある男性諸君には、娯楽として読む分にはけっこうおもしろいですよ、と言っておきます。

 これが終わったので、次はまたスウェーデンものになりそうです。



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ニルスのふしぎな旅3

2006年10月04日 | 心の教育

 『ニルスのふしぎな旅』(偕成社)の第4巻の最後の「解説」によると、日本では長い間、部分訳しか紹介されず、全訳が出たのは奥付を見ると1982年の末です。

 昔読んで『ニルス…』の地理教育-環境教育の面を読み取れなかったのは、私が子どもで理解力が足りなかったというだけの理由ではないようです。

 日本の児童文学の水準ということもあるのではないでしょうか。

 日本の子どもたちには面白くない、わからないと訳者が思った部分は省略されたりしたのです。

 しかし、それは児童文学者にとって面白くない、わからないだけだったのかもしれないと思ったりします。

 例えば第3巻に、山火事で森が焼け雨や風で腐植土が失われつつあり荒れていた山に、子どもたちが木を植える話があります。

 そこには、こんなことが書かれています。

                    *

 子どもたちは苗を植えながら、もっともらしい顔をして
 「ぼくたちの植えた小さな苗木が、腐植土を風に飛ばされないようにおさえることになるだろうね」
などと、お互いに話しあっていた。そればかりではなく、そのうち木の下には新しく腐植土ができるだろう。その新しい腐植土のなかに種がおちて、何年かたつと、いまはなにもはえていない、このはだか山でも、エゾイチゴやブルーベリーもとれるようになるだろう。それから、はえた苗木は、そのうち高い木になるだろう。大きな家や、りっぱな船をつくれる材木にもなるだろう……。
 山はだの割れめに、まだすこしでも土がのこっているあいだに、子どもたちがここにやってきて苗木を植えなかったら、腐植土は雨水にみんなさらわれてしまって、山はもう、どんなことをしても森などしげれなくなってしまったろう。
 「ぼくたちがここにきて、ほんとうによかったね。もうすこしおそかったら、もうだめだったよ。」
 子どもたちはそういって、自分たちのすることは、とてもたいせつなことだと思った。
 ……
 この仕事はちょうど、つぎの時代の人たちのための記念碑のようなものである。そのままにしておいたら、つぎの時代の人たちにはげ山だけをのこすことになるのだが、こんどはりっぱな森を残すことができるのである。そして、のちの世の人たちは、祖先がりっぱな考え深い人たちであったと知って、ありがたく思い、尊敬するだろう。

                      *

 ここには、自然と人間、そして先祖と子孫の、「いのちのつながり」を伝えようという作者の願いがはっきりと示されています。

 そして面白いかわかるかといった余計な気づかいせず、子どもたちに向かってストレートに、ただ今(の時代)の自分(たち)だけのために生きるのではなく、子孫のために大切なものを残して、感謝され尊敬される先祖になることこそ、ほんとうに生きるということなのだ、というメッセージ・教訓を語っています。

 (もちろん全体は圧倒的に面白く、感動があるので、こういった個所も読ませてしまうという作者の文学的力量の問題はあるでしょう。)

 こうしたメッセージ・教訓は、戦後日本の大人が子どもに語ることを忘れてしまった、自分自身も忘れてしまったものではないでしょうか。

 しかし、今私たちは、まず自分が思い出し、子どもにも伝える必要があると思います。

 私たちは先祖のいのちを受け継いだ子孫であり、やがて次の世代の先祖になるのだ、ということを再確認しましょう。

 もうすこしおそくなって、もうだめになる前に、子孫たちにいのちを伝え、いのちの場・環境を安全なものにもどして引き継ぐ、いいご先祖さまになりたいものです。


 いいご先祖さまになりたい方、ぜひ、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」、趣意書参加要領の記をご覧下さい。そしてご参加下さい。


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