木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

昭和19年に戦争が終わっていたら、「東京大空襲で考える」

2008年03月11日 | Weblog

昨日は、63年前、東京に米軍機による大空襲攻撃があった日、ということで、TBS系では『東京大空襲・語られなかった33枚の真実』というドキュメンタリーとドラマをあわせた番組が放映された。
石川光陽という警視庁配下の写真師刑事は、空襲攻撃の直後にその被害地域に入って、被害の実態を写真に収めるよう命ぜられ、必死にその任務を果たすのである。
焼け焦げた死体、道路に並べられた焼死体、それらのリアルな写真は、戦後、その存在を知ったGHQに提供を求められる。
石川はこれを拒否。それらはカメに入れられ、庭に埋められ、時を過した。
ドラマは石川の行動と平行して、米軍の日本空襲への「周到な作戦・準備」が描かれる。
まず、南太平洋の制空権を確保したことで、日本本土への空からの攻撃が可能になった。
次は爆撃の精度を高める研究・実験が行われる。
木と紙でできている日本家屋の屋根を鋭角的に突き抜ける爆弾を作り、それを束ねた中にはゼリー状のガソリンが仕込まれていて、着弾したとたんに四方に飛び散り、一気に家の中から燃え上がるように仕組まれていた。
米軍の空襲は当初、工場などに対する「ピンポイント攻撃」だったが、それでは効果が弱いと無差別爆撃にきりかえたのは、ルメイ将軍だった。
エアコンの利いた操縦室から爆弾を投下する。攻撃する米軍兵士にとってはそれは何の痛みも伴わない行為だった。
地上の地獄を証言するのは、辛うじて生き残った人達だ。
東京大空襲をの惨状を記憶するモニュメントは特にない。(私的なものはあると思うが)
関東大震災の犠牲者のための東京慰霊堂に同居している。
関東大震災で最も犠牲者の多かった地域と東京大空襲地域は重なっている。
東京下町、住宅密集地帯。米軍は、この地域が空からの攻撃に最も弱い、そして最も効果的な地域であることを理解していた。
一夜で10万人が犠牲になったというこの空襲の死者達の行き場のない遺骨が、慰霊堂に何箱、何十、何百箱も無造作にまとめて収められている。
これだけの言い尽くせない犠牲を出してようやく「戦争終結宣言」が天皇の名により出されるのだが、もっと前に、昭和19年の間に降伏宣言されていたら、

広島・長崎への原爆投下、この東京をはじめとする日本諸都市への空襲、沖縄地上戦の犠牲者を出さずに済んだわけだが、ここで私の頭に浮かんだ考えは、
「これだけのひどい犠牲を出しても、戦後もう数年にして、すぐに、軍隊復活を考えるような勢力が市民権を回復し、戦後60年経った今では、南京大虐殺数は中国の過大な言い分だ、沖縄の集団自決に強制はなかった、従軍慰安婦も軍の関与の証拠はない、だのと言い出す勢力を許す日本国民で、アメリカの世界各地に出かけての侵略戦争にどこまでも付いて行く政府を容認するようでは、戦争がもし昭和19年で終わっていたら、日本の軍事勢力は残ることになったのでは、するともっとどうしようもない現実が今も続いたのではないか」という不謹慎なものだった。
それとも、韓国や南米諸国のように、民主化を求めて、更に血を流すことによって、「与えられた民主主義ではなく、勝ち取った民主主義」の国として歩むことになったのだろうか。



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