小沢氏の秘書逮捕。
秘書を逮捕してもしょうがないだろう、というのが私の感想。
事情聴取するのはわかりますが、逮捕するだけの根拠があるならそれは小沢氏その人でしょう。
検察がこういう姑息なというか、強引なというか方法に出るのは何なのかと思ってしまう。
だからといって、小沢氏の政治資金が、私達第3者の目から見て、透明なものとはとても言えないのもこれまた事実。
東北地域の公共事業を仕切るのは小沢事務所だと言われている。小沢さんは田中角栄の愛弟子として、角栄方式の集金術で政界に影響力を持ってきたのだろうが、やはりそれは古い政治家のあり方だ。
小沢一郎、という人をどう見るかというと「わからない」というところに落ち着く。
こういう社会にしたいんだ、というような政治理念のようなものはあまり見えなくて、選挙に勝利するということにだけいやに執念を持っているようでもあり、しかし「検察と対決する」と民主党大会で宣言した。
検察という誰にも裁かれない組織にとって都合の悪い改革を、それこそ「政治権力」をもって成し遂げようとする「意志宣言」か。
「新聞ジャーナリズム」の危機。
近頃さかんに取り上げられる事態。
広告収入に頼るアメリカでは地方新聞が立ち行かなくなり、次々に廃刊に追い込まれている。
日本の場合は、購読料と個別宅配制度によって、アメリカほど急激に廃刊という事態には陥っていないが、危機であることに変わりはない。
インターネットの普及によって、新聞よりもネットで情報を得る人が急激に増えたのが、新聞敗退の一番大きな理由だが、私などは年令のせいもあって、長くパソコンの画面を見ていると、目がしょぼしょぼしてきて、やはり紙の上の文字を追うのが一番身にあっている。
ネット上の情報は即時性とわかりやすさを追求するが、ネットではカバーしきれない、取材対象の深化が新聞には求められるし、また新聞だから可能なことのはずだが、今そういう意味での信頼が新聞から失われている。
横並びの官庁や警察発表そのままの記事が並んでいると批判を受けている。
長い時間をかけてのルポルタージュなど許されない時代になってしまったと、朝日新聞のルポルタージュ記者として鳴らした本多勝一氏などは嘆いている。
その道こそ、新聞が生き残る方法だと思うけど。
私もこんなささやかな日記を書いて、社会に対する自分の考えを表明しているが、そういう人が世の中にたくさんいて、それが世論の潮流を作っていくんだという希望を持っているが、このようなブログも本の中の活字を読むという習慣なり訓練で成り立つ。
「つぶやき」は書けても、長い、論理の乱れない文章を書こうと思うと、これがそれほど簡単ではない。
新聞を読む、本を読む、この習慣なしに文章を書くことはできない。
これはネット上の情報を読んでいるだけでは身に着かない技術だと思う。新聞の危機だけにとどまらない。