情報を得ることができなかった悲劇「満蒙開拓」
生協の企画で長野県の南部阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」に行った。
私の住む長野市からは遠く、なかなか個人では行けないところだが、一度は行ってみたいと思っていた。
元高校教師だったというボランティアガイドさんが適切なガイドをしてくれた。
長野県は全国で最も多くの開拓団を送り出し、敗戦による混乱と逃避行の中で俗に「八万人」と言われる犠牲の中心になってしまったわけだが、長野県が突出して多くの開拓団を送り出した背景にあるのは学校教師の熱心な勧め、市町村幹部の国からの要請に答えようとする強制に近い行動があったという。
昭和恐慌による不況、それまでの農村の経済を支えた繭価の暴落など苦境による背景はあるが、それは長野県に限ったことではない。
教師と役所という「おかみ」の権威に従う習性はいまだ県民の特性のように思う。
昭和初期、農村と都市との貧富の差は拡大し、持てる者、大企業や大地主による収奪は現代の「1パーセントの富裕層と99パーセントの貧困層」と表現される状況と酷似した状態にあった。
「作られた貧困」によって苦しんでいた農村の二・三男以下が「二十町歩の地主に成れる」という宣伝文句に惹かれ、思い切って満洲の地に夢を託したわけだが、ここにもうウソがあった。満蒙開拓とはいうが、全くの原野を切り開くのではなく、すでに中国人が耕し、住んでいる土地を安く買い占め、追い出した後に入っていったのだった。
満洲国を支配する関東軍にとって、多くの日本人を移住させることは、国境を接するソ連への備えとしての兵士、それは青少年義勇軍という形の動員であり、また満洲で育つ子供達を将来の軍の担い手としてみなすという意味もあった。
しかし敗戦の一年前ぐらいには開拓団以外で中国東北部に進出していた企業などの幹部は日本の敗戦を予測していて、家族などは日本へ帰す算段を始めていた。
しかし開拓団を送り出す農村の側にはそうした情報は知らされず、敗戦の年、五月に出発した開拓民もいたのである。
ところで、ガイドしてくれた元高校の先生は敗戦の年には中学生で、軍国主義教育に洗脳された軍国少年だったという。
森友学園の園児がわけもわからず暗唱させられていた「教育勅語」は、当時は行事の時に校長が奉安殿でから取り出し、壇上で重々しく読み上げるものであって、その間、生徒は頭を下げたまま顔を上げることもできなかったという思い出を語ってくれた。
戦後生まれの籠池はそんな体験もなく、安易に利用したのだ。
行きのバスの中で見たビデオでは生き残って日本に帰国できた体験者の方々が戦争反対を結びの言葉としていたが、今「戦争のもたらす悲惨さ、残酷さ」は当時と同じ形では出現しないであろうから厄介だ。
当時の人々もおそらくそうだったろうが、いつの間にか巻き込まれ、呑み込まれてしまうのだ。
憲法改悪、共謀罪、秘密保護法、と、もう巻き込まれている。