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信長公記では桶狭間の戦いは基本的な状況判断を間違えながら、結果的には義元の首を討ち取るという流れになっている。
しかし現在では桶狭間で休息を取っていた今川義元の陣地を迂回して奇襲攻撃をかけ、首をはねたというのが定説です。どうしてこのようになったのでしょう。
それは江戸時代初期に儒医の小瀬甫庵が書いた「信長記」によるところが、おおきいのではないでしょうか。桶狭間の戦いの4年後に生まれた小瀬は戦いの様子などるよしも無く、伝聞や、創作による記述や拡張がおおいいのではないでしょうか。
江戸時代に創作?された桶狭間奇襲説は日本人の心を揺さぶり、現在までうけつがれています。日本人は奇襲が大好きです。真珠湾奇襲作戦も山本五十六が桶狭間の戦いを参考に作り上げたとも言われています。
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