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白虎隊士の服装は元々、シャツにズボンという洋装に銃を持って、戦ったのである。初期の絵画には銃を持った隊士が多数描かれてきたが、次第に着物姿が描かれるようになる。そうなると、着物に鉄砲は似合わないということで、鉄砲もなくなり、着物に刀という姿になったのでしょう。白虎隊の悲劇を美化するために、そのように、なったのであろうかと思われる。
隊士の人数も15人から19人に変化します。後に飯盛山以外で亡くなった隊士3人と遅れてきて、後追い自刃した1人を人数に加えるようになったからです。
〇白虎隊出陣
1868年8月、新政府軍が母成峠を越えて会津市内に突入してきたとき、会津若松市内防御のために、予備役の白虎隊にも出撃命令が出る。16歳から17歳までの白虎隊士中二番隊37人が中隊頭日向内記に率いられ、戸ノ口原へ向った。その後、戦いに苦戦を強いられ、暴風雨の中、退却することになるが、20人あまりの隊士がはぐれて孤立してしまう。
指揮官を失った彼等は、新に隊士の篠田儀三郎をリーダに、飯盛山を通って、鶴ケ城を目指すことになる。負傷者を助けながら、やっとの思いで、山の中腹にたどり着いて見たものは燃え上がる鶴ケ城であった。これを見て彼等は、絶望して、気力も失い、自刃するのである。
彼等を「自刃19士」と呼ぶ。
なお,白虎隊が見たという、燃える鶴ケ城は幻覚で、鶴ケ城の落城はそれから1ヵ月後であった。
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