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天下統一を果たした秀吉は豊臣政権を存続させるために多くの養子縁組を繰り返している。秀次もその中の一人であったが、文禄二年(1593年)に秀頼が生まれると邪魔者扱いになる。
殺生関白と呼ばれ、辻斬りや天守の窓から鉄砲で人を撃つたり、妊婦の腹を裂いたとのエピソードが残っているが嘘っぽい。
結局、文禄四年六月、毛利輝元から秀吉に提出された書状が命取りになる。それには、秀次が諸将に出された誓約書[有事の際には秀次に忠誠を誓う]とかかれていた。
弁明の機会さえ与えられず、高野山に追放され、切腹。妻子、御付きのものすべてが抹殺されることとなった。
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