
その岩瀬は海防や外交の分野で頭角を現し、ペリーが再来日した1854年には老中の阿部正弘に抜擢されて、目付になっていた。岩瀬は米国、オランダ、ロシアなど列強5か国と折衝し、日米修好通商条約をはじめとする[安政の五か国条約]の調印に尽力した。
岩瀬の手腕は米国全権大使のタウンゼント.ハリスが[綿密に遂条の是非を研究し、余を閉口せしめることありき]といわせた男であったが、14代将軍の跡継ぎ問題で大老の井伊直弼と対立、安政の大獄(1858年)で失脚、その3年後失意のまま病死した。
老中阿部正弘の名前は広く歴史に残っているが、岩瀬の名前は地元の新城市ぐらいにしか残っていない。しかし岩瀬は外交官として活躍する以外に文人として100点を超えるを書や絵画を残している。
歴史の陰には有名人に隠れて忘れ去れるような人物が多数います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます