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襄が八重に引かれるようになったのは、暑い夏、八重が井戸の上で涼みながら裁縫する八重を見てからといわれている。そして明治8年10月15日ふたりは婚約する。
ところが八重は11月18日には女紅場の教官を解雇され、兄の覚馬も京都府顧問を罷免、襄も博物館御用掛かりの仕事をやめさせられる。山本一家全員解雇の状態になったのである。これは京都という土地柄、仏教界からの圧力ではないかといわれている。
明治8年11月29日に同志社英学校が開校した。そこの初代社長に新島襄が就任する。八重は同志社の教員で宣教師のJ.Dデイヴィlスから洗礼を受けクリスチャンになり、翌日の明治9年1月3日結婚する。
二人が結婚した4月26日には安中より襄の両親、姉、甥が京都に来て共に生活するようになる。
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