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秀吉、花見といえば「醍御の花見」ですが、その前にも天正16年(1588年)九州平定を祝って蒲生氏郷、前田利家などの側近を率いて、石庭で有名な龍安寺の糸桜(枝垂桜)を眺め歌を読んでいる。
また、5000人が参加した文禄3年(1594年)の吉野の花見も有名です。文禄の役で不機嫌だった秀吉を喜ばせようと、部下が企画した花見でした。このときは上千本や中千本が見渡せる吉永神社に本陣をおき、3日間花見を楽しんだといわれている。
このように派で好きの秀吉の花見は、そのたびに多くの金銀が消費され、京都の経済を大いに潤しました。それまで花見の風習がなかったわけでもなかったが、公家や貴族に限った習慣で庶民には浸透していなかったのですが、秀吉の花見が庶民に花見の習慣を根付かせていった。
醍醐の花見は体力が落ち始め自分の寿命を感じ始めて秀吉が、直参の部下と正室のおねや女房衆だけが参加した花見は、遠くの吉野山ではなく伏見城に近い醍醐寺でとりおこなった。
慶長3年3月15日に行われた花見は前日までの雨も上がり絶好の花見日和となった。伏見から醍醐寺までの約4キロの道筋を正室のおね、淀君、4人の側室、秀頼の輿、1300人の女房がつづいた。この1300人の女房は秀吉がデザイン、島津家製作の晴れ着で行進しました。
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