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信長の死後天下を統一した秀吉であったが、最大の誤算は跡取りに恵まれなかったことでしょう。
秀吉の女好きは有名でした。一説には100人を超える女性と交わったとされています。それでも子にめぐまれませんでした。
秀吉の正室はおね(北の政所)ですが、もちろん子はいません。
側室では浅井長政の娘の淀殿が有名です。淀殿は鶴松と豊臣秀秀頼の母親ですが、秀吉の子ではないのではないかと疑われています。なぜならば、100人以上の側室を持ちながら、子供に恵まれなかった秀吉に子種があるとは考えられないからです。では秀頼は誰の子かというと、大阪城でいつもそばにいた大野冶長、秀頼の補佐官の片桐且元、信頼の厚い石田光成などが疑われています。
戦国武将は両党使いが多いいのですが、秀吉は女1本でした。100人いた側室の一部をあげると、南殿、特子、山之内一豊の娘の南の局,京極家の娘松の丸殿、前田利家の娘加賀殿、織田信長の娘三の丸殿、三条殿、姫路殿、月桂院、安楽院、など
秀吉に早く、男子が誕生していたら、歴史も変わっていたことでしよう。
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