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鉄砲が種子島に伝来したのが天文12年(1543年)ですが、信長が戦で鉄砲を使った記録は天文23年正月、知多半島の今川方の砦を攻めた時である。
以後、永禄12年(1568年)には鉄砲製造の集積地の界を押さえ織田軍団の鉄砲調達数は飛躍的に増大する。その後、雨の日は竹の皮を編んだ火縄が湿り使えない鉄砲の弱点を硝石の水溶液で煮出した木綿火縄を使うことで、克服している。1回の発砲分を小分けにした早合(はやごう)も、このころから行われていたらしい。以前は火薬の容器から蓋を用いて定量を計り、鉛の弾も別の袋から出して、装てんしていただけに、大きな進歩である。
これら鉄砲を使った創意工夫の積み上げが天正3年(1557年)5月21日の長篠の戦いの勝利へとみちびいたのでしょう。この戦いで織田郡は3千丁の鉄砲を投入したとも言われている。なおこの戦いで用いられたとされる鉄砲の3段撃ちは疑問視されている。
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