
1867年慶応3年、パリ万博の日本代表として慶喜の弟、徳川昭武以下21名の中に御勘定格として渋沢栄一が参加します。金銭に明るい栄一を慶喜が推薦して者と思われます。
一行はフランス、スイス、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリアを歴訪、明治の文明開化につなげます。
なお、パリ万博には薩摩藩や佐賀藩も出品していました。
渋沢が帰国してみると徳川幕府は倒れ、明治の代の中になっていました。大隈重信の勧めで大蔵省に入局して、新貨幣、国立銀行の設立など活躍したが。明治6年財政改革の主張が入れられず辞職、以後ズート民間で働くことになるが92歳で没する。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます